前回まで、内山の窯業の再編の過程で外山も含む人々の大移動に繋がり、ついでに外山で色絵素地作ってた人なんかはすこしだぶつき気味になったんで、どういう経緯だかは分かんないけど、一部の人たちは九谷や姫谷、吉田なんかに活路を求めたんじゃないでしょうかって話をしてました。前にも述べましたが、九谷や姫谷みたいな本州というか、九州以外に技術が移転したのは、17世紀ではこの時だけです。どう考えても17世紀に限れば、後にも先にも、1650年代中頃から後半くらいしか、技術が流出するチャンスというか、可能性はありません。
でも、18世紀後半になると砥部焼など四国などにも技術が流出しはじめ、19世紀になるともう止まりませんねって状態になりますけどね。目的は、民間の経済活動か、各地の藩による産業振興のための特産品作りってとこですね。少なくとも、ゲージュツ作品目指したところなんてないですからあしからず。まあ、そうした側面もあるのは、江戸期から作家という概念のあった京都くらいですかね。でも、18世紀以降の流出って17世紀と決定的に違うのは、有田ではなく、お隣の大村藩や平戸藩あたりの技術というか人が出て行っていることです。
おっと、こんな話をしはじめると、また脱線してしまいそうなので、話を元に戻したいんですが、いったい技術移転の話の前は何の話題だったんだかってとこですね。前の記事を読み返してると、どうやら山辺田窯跡の古九谷様式の技術は空中分解して、有田の後継技術としては何も形をとどめていまへんってところで、脱線しはじめたんでした。
でも、山辺田窯跡の技術が完全消滅したっていうと、あんな芸術性の高いもんがまさかねって思われる方もいらっしゃるかとお察しします。でも、それって現代の視点や工芸品としての価値観で見てませんか?古九谷は狩野派かなんかの絵師の絵だそうですが、少なくとも有田で作られた古九谷様式の製品はご指摘のとおり職人の絵ですから、芸術とはまるで関係ありまへんがな。あくまでもお金を稼ぐための商品です。売れるものはいくらでも作るし、売れないものは今日からでも止めますよ。
喜三右衛門さんちが開発した、洗練された技術の製品を量産する体制ができそうなのに、いつまでも古い技術の製品なんて作りませんよ。売れないもん。最新のスマホが発売されたのに、わざわざ10年前のスマホを同じ値段で買う人いますか?スマホと古九谷、何の関係があるんじゃって言われそうですが、有田磁器は、当時の最先端の工業製品ですから大同小異です。
ということで、話を進めるつもりでしたが、ゼンゼン進まなかったですね。次回はマジメにやります。(村)