前回は、17世紀後半の内山では、色絵素地は染付を併用するものも多少はあるけど、大半は白磁を使ってますって話をしてました。赤絵屋の話を続けます。
この赤絵屋ですが、これまで述べてきたとおり、本業は上絵付けです…。といいたいところですが、少なくとも17世紀後半の赤絵屋は、もっと手広くやってます。やってますってより、藩から許されてますってのが正確でしょうが。きっと、まだ上絵付けだけで生活するのは難しかったのかもしれませんね。
以前もお話ししたことがありますが、これまでに赤絵屋跡は2軒発掘調査しています。赤絵町に位置する赤絵町遺跡と、隣の幸平地区に位置する幸平遺跡です。この中で、幸平遺跡では粉砕した陶石を水簸するための水簸槽の遺構が検出されています。また、赤絵町遺跡では、釉石を粉砕するための踏み臼の臼跡が発見されています。こうした施設は、本焼き業者である窯焼きの遺跡である中樽一丁目遺跡では、複数発見されています。考えていただければ分かりますが、こういう土を作ったり、釉薬を作ったりの施設というのは、本来上絵付けの工程とは無関係なはずです。
ところで、赤絵屋跡を発掘調査すると、共通してわんさか出土するものがあります。製品成形用の土型です。最初、赤絵町遺跡を調査した時には、何で??って思いましたよね。だって、当時は当然赤絵屋は上絵付け専門業者だと考えられていたし、自分でも疑うことなくそう思っていましたから。まあ、でも調査をはじめた最初の頃から出土したわけじゃありません。最初の頃というと、つまり、時期的には19世紀くらいってことです。どんどん掘り進めましたが、18世紀でもほぼ出土しません。ところが、17世紀の土層や遺構に至って、わんさか出はじめたのです。最終的に、保管用のコンテナビッシリ数10箱はありますので、結構な量です。
しかも、出土した土型には共通点がありました。ほぼすべて、押し型成形用の土型ってことです。ちなみに、土型には2種類ありまして、一つが型打ち成形用、もう一つが押し型成形用です。違いは、型打ち成形用が、まずロクロで製品を成形しておいて、それを土型に押し当てて、たたき板で外面から叩いて整形するための型です。一方、押し型成形は、ロクロを使わずに、直接粘土を土型に押し込んで成形するための型です。最も代表的な例としては人形類なんかで、やはり土型もメチャいっぱい出土しています。あと、瓶類なども結構ありますね。変形の猪口とか…。
しかも、中にはその土型で作った製品なんかも出土してますし、上絵付けしたものまで揃うものもあります。これって、もはやここで作ったとしか考えられないでしょ。でも、赤絵町遺跡だけだと、たまたまそこの赤絵屋がそうだったみたいな可能性もあるわけですが、幸平遺跡掘っても同じ状況でした。稀には染付入りの素地なんかもありますので、呉須も使ってたってことでしょう。
まあ、登り窯跡ばかりの調査で、赤絵屋のことなんて何も実態が分からなかった時代でしたので、大発見ですよ。
ということで、まだ続きそうなので、本日はここまでにしときます。(村)

土型と同型の製品の出土例(赤絵町遺跡)
瓢箪の上に座る布袋像の土型・色絵素地・色絵製品