前回は、1650年代中頃から成立した“赤絵屋”は、実は上絵付け専門業者じゃなくて、製土から上絵付け工程まで一貫して行っていた業者でしたって話をしてました。でも、じゃ従来の本焼き業者と変わらないじゃんってことになりますが、決定的に違うのは、人形類とかロクロを使わない製品に特化しており、碗・皿とかロクロを使用するものは作っていないってことです。ですから、大量に出土する土型も押し型成形のものばかりで、型打ち成形用のものは出土しないって特徴があります。
しつこいようですが、これってあくまでも内山の話ですよ。外山は従来と同じように、引き続き本焼き業者が上絵付けまで一貫して行っています。ただし、この内山の生産制度改革の一環として、山ごとの製品ランク別生産が確立しますので、内山以上の高級品を生産した南川良山と大川内山を除く、中・下級ランクの製品生産山では、色絵磁器生産から一旦撤退してしまいました。というとまた勘違いされそうですが、大川内山の場合は、あくまでも山としては下級品生産の場所ですからね。そこに、ごく一部だけ最高級品の生産が組み合わせられているだけですので、くれぐれもお間違いなく。
ところで、内山の赤絵屋では製土から上絵付けまで一貫して行っていたことはいいとして、じゃあ、逆に疑問が湧きませんか?本焼き業者である窯焼きの場合は、製品を製作して登り窯で本焼きした色絵素地を赤絵屋に持ち込むという流れになるわけです。じゃあ、逆に赤絵屋の場合は、土型で成形するところまではいいとして、素焼きや本焼きはどうしたんでしょうね?土型だって焼かないといけませんしね。窯焼きと逆に、赤絵屋から窯焼きへ持ち込んで、素焼き窯や登り窯で焼いてもらったという流れがあったんでしょうか?でも、こんな複雑なことするなんて、いくら何でも不思議だと思いませんか?あくまでも、上絵付け工程の分業化は効率生産の一環ですからね。
窯焼きの場合、工房のある屋敷地内に設けた素焼き窯で素焼きし、山の斜面に築いた登り窯で本焼きします。でも、赤絵屋の場合は、工房内にある窯は赤絵窯だけです。さあ、どうしましょう?以前、山辺田遺跡の説明をした時にお話ししているとは思いますが、上絵付け工程分業化以前の工房ですと、工房内に赤絵窯があって、本焼きは登り窯で行います。素焼き窯は、楠木谷窯跡に関わる工房などにはあったはずですが、山辺田窯跡などではまだしてませんのでありません。この場合は、本焼きは登り窯、上絵付けは赤絵窯と、同じ業者であっても自前で使い分けられるわけです。
ヒントは赤絵窯なんですが、お分かりですか?まっ、でもまだ話は続きますので、答えは次回ということで。(村)