前回は、上絵付け工程が分業化された内山の赤絵屋では、ロクロを使わない製品については製土から上絵付けまで一貫して行っているって話をしてました。でも、それなら素焼き窯も本焼き用の登り窯も持たない赤絵屋では、どうやって色絵素地を焼成したんでしょうねってところで終わってました。本焼き業者である窯焼きと逆に、焼成は色絵素地の焼成までは窯焼きに委託したんでしょうかねってことですが…?
最初にお断りしておきますが、残念ながらこれについて記したような文献史料は一切ありません。なので、発掘調査の成果から、ちょいと頭をひねるしかありません。
まず、人形類などを成形後に焼成するには、素焼きと本焼きが必要になります。それから、もう一つ人形類などの成形に使う土型も素焼きですから、それも焼成する必要があります。窯焼きの場合は、工房内に素焼き窯があって、本焼きは山の斜面の登り窯で行います。でも、赤絵屋の工房内には素焼き窯はなくて、赤絵窯しかありません。じゃあ、どうしたんでしょうか?
あっ、それについて記す前に、またちょっと脱線していいですか?素焼きのはじまりについて、ちょっと思い出したことがあるんで…。
そもそも、最初の磁器である初期伊万里様式が作られていた時期には、まだ素焼きは行われておらず生掛けでした。素焼きは古九谷様式の時期に至ってはじまりますが、古九谷様式なら何でもかんでも素焼きしてるってもんでもなくて、ここでさんざんっぱら説明してきましたが、“古染付・祥瑞系”、“万暦赤絵系”、“南京赤絵系”に区分した古九谷様式の中でも、“南京赤絵系”の中で開発されます。例の喜三右衛門さんちの技術です。薄くて白くて…、後に乳白手って呼ばれる素地として完成するやつです。前にもお話ししたように、喜三右衛門さんは上絵の赤絵の具の開発に苦労したんじゃなくて、一つはこの素地の開発に四苦八苦したってことですよ。従来の製品とはまったく一線を画す質の製品ですからね。
そこで、この素焼きですが、こういう事情があるので、喜三右衛門さんも使っていたはずの楠木谷窯跡では、素焼きの破片がボチボチ出土します。登り窯のところで運んでて割れたとか、まあ、何かがあってそのまま廃棄されたんでしょうね。なので、そういう素焼き片には呉須で描いた文様が残っています。
それで、先ほどお話ししましたが、素焼きは知られる例では、工房内に設けられた素焼き窯で行われます。外形的にも内部構造的にも、ちょうど登り窯の一部屋を抜き出したような窯です。
そうすると、たとえば素焼きは喜三右衛門さんがはじめたとすると、新しい種類の製品だけじゃなくて、素焼き窯も開発しないといけなかったってことですよね。でも、いきなり登り窯の一部屋を抜き出したような素焼き窯なんて思い付きますかね…?
そこで、ちょっとおもしろい発掘調査成果があります。楠木谷窯跡には登り窯が2基あって、西側に1号窯、東に2号窯が並んでいます。1号窯が1640年代後半から50年代前半の窯で、2号窯が50年代前半から中頃の窯です。2つの窯はだいたい10数メートルくらい離れてます。ところが、1号窯のさらに西には枳薮(げずやぶ)窯跡という窯が位置しており、実は、1号窯と2号窯の距離よりも、1号窯と枳薮窯跡の方がはるかに近い距離にあります。焼いてる製品も違いはありません。操業年代もほぼ同じです。つまり、今は別の窯跡として数えられていますが、枳薮窯跡ももともとは楠木谷窯跡と同じ一つの窯場でしょうねってことです。
それでです。この枳薮窯跡の発掘調査では、おもしろい出土状況が確認できました。何と、一番上の焼成室床面には製品がたくさん残っていたんですが、それが素焼きばかりだったんです。先ほどお話ししたように、楠木谷窯跡では、素焼き片がボチボチ出土します。だったらそのたぐい?それとも焼成不良の焼け損ない??って思うでしょ。でも、残っていた素焼き片には絵も描かれてないし、釉薬の痕跡もないんですよ。つまり、呉須で絵付けする前の工程のものが、そこで焼かれたってことです。それって、まさに素焼きでしょ。
つまり、登り窯の一部屋を抜き出したような素焼き窯が開発される前は、本当に登り窯の一部屋で素焼きしてた可能性が高いわけです。
登り窯で素焼きする例は、ないわけではありません。時代はグッと下がりますが、明治時代以降は登り窯の一番上の部屋で素焼きが焼かれています。窯を下の部屋から段々焚いていくと、最終的にその余熱だけで、素焼きがこんがり焼き上がるって仕組みです。枳薮窯跡の例も一番上の部屋ですから、同じですね。
ということで、本日は脱線話になってしまいましたが、ここまでにしときます。(村)
- 『有田皿山職人尽し絵図大皿』(有田陶磁美術館蔵)「素焼き窯」の部分