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有田の陶磁史(345)

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   前回は、内山の赤絵屋で生産した人形類とかはどうやって焼いたんでしょうねって話をしようとして、素焼きの話に脱線したところでした。素焼きは、酒井田喜三右衛門さんちの“南京赤絵系”の古九谷様式の技術ではじまり、もしかしたら当初は素焼きは登り窯の一番上の焼成室で焼かれていたのかもってところで終わってました。ついでですので、もう少しこの話をさせてくださいね。

 そもそも喜三右衛門さんの“赤絵”の技術は、商人である東島徳左衛門さんが長崎で「志いくわん(四官)」なる中国人から伝授されたものを、喜三右衛門さんに「これ作ってくんね~?」って持ちかけたことにはじまります。“南京赤絵系”の技術は、当時の景徳鎮の最先端の製品と同様なものが製作できる技術だったので、まあ、二人占めできればおいしいわけですよ。

 あっ!勘違いしないでくださいね。景徳鎮と同様なものを製作する技術だったからって、景徳鎮系の技術が導入されたとは限らないですからね。技術の如何に関わらず、そもそも古九谷様式自体が、景徳鎮の同等品製作をコンセプトに開発されたもんですから、似るのは当然ですからね。

 たとえば、徳左衛門さんは「四官」さんから伝授されたって言いますが、これは中国の福建地域とか南のあたりで四男を称する呼び方ですから、技術的には江西省の景徳鎮ではなく、福建省の徳化窯とか漳州窯とかそんなところの可能性はアリアリなわけです。それに、古九谷様式は上絵の青を使いますが、下絵の染付を使う官窯はもちろん、民窯でも景徳鎮ではほぼ使いませんから。

 まあ、それは置いといて…。喜三右衛門さんが“南京赤絵系”の技術を確立する以前から、すでに上絵付けの技法は開発されてましたので、赤絵窯を開発したのは喜三右衛門さんじゃありません。たぶん、高原五郎七さんってことになりますね。この赤絵窯も中国系の技術なら中国の赤絵窯と同じ可能性高いよねってことで、かつて、景徳鎮で使われた炭窯とかずいぶん頭を悩ませたことがあります。でも、突如ひらめいたら、な~んだそっちかってオチです。従来から日本にあった素焼きの窯を改良して、それに内窯を加えて赤絵窯にしてたってカラクリです。ですから、バリバリ有田発のオリジナルな技術です。

 楠木谷窯跡では、“南京赤絵系”の技術が確立する以前から、“古染付・祥瑞系”の古九谷様式が作られていました。つまり、喜三右衛門さんは、上絵付けの技術自体はすでに体得していた可能性が高いってことです。

 でも、目標とするものを完成するには、素地がね~って感じですかね。どうも従来の技術の製品は野暮ったいってか重いんですよ。もっと、スカッとキレキレのキレイなやつ作らないと…って感じ。でも、泉山の原料ではどうやっても、景徳鎮のようなキレキレが作れないんですよ。焼くとへたってしまうので。

 ただ、これについては、山辺田窯跡にてだと思いますが、すでにある程度解決方法が見つかっていました。ハリ支えです。山辺田窯跡では、古九谷様式の製品としてはデッカい皿を主に作ってましたから、そのままだと、高台へたりまくりですよ。そのため、陶器質のハリを高台の中に数か所置いて、へたるのを防ぐって荒技を開発したんです。

 いや~、何だか調子に乗ってきてしまいました。続けたいところですが、まだ終わりそうにないので、本日はとりあえずここまでにしときます。(村)

 

 

 

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