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有田の陶磁史(346)

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   前回は、素焼きのはじまりの話をしてたら終わらなくなってしまいました。でも、もう少し続きの話をしますね。

 前回までに、素焼きは喜三右衛門さんちの“南京赤絵系”の古九谷様式の技術の中で誕生したってことをお話ししました。

 喜三右衛門さんは、“万暦赤絵系”や“古染付・祥瑞系”の古九谷様式のように、ちょっと器壁に厚みがあって、ちーとばかし野暮ったいような磁器じゃなくて、同時期の景徳鎮製品のような、薄くて、白くて、作行もキリッとした製品が作りたかったわけです。でも、泉山の陶石を使うと、薄くすると焼くとへたってしまうんですね。

 たしかに東島徳左衛門さんが、作り方は長崎で志いくわんさんから聞いてきてはいたんですけど、その製法でやってもうまくできないんですよ。つまり、最初からどんなものを作り上げるかってゴールは決まってるんですが、走り出したらいきなりつまづいたみたいなもんですね。原料の違いはいかんともしがたいですから。鮮やかな上絵の赤を出すみたいなんかとは、わけが違いますから。まあ、この赤の話は創作話ですけどね…。

 従来は生掛けですから、いきなり登り窯で焼くわけですよ。そうするとへたる…。これ何度か繰り返してたら、たしかに身代が潰れそうになるのも当然。有田には、「窯焼きは三代続かない」って言葉がありますが、時々本焼きの際に不窯(焼成失敗)になるので、身代を潰すってことの例えです。江戸時代には、おおむね窯焚きをするのは2カ月に一回程度ですから、3回失敗したら半年分の収入どころか人件費や原材料費から何からですから…、そりゃ潰れますよ。たとえ生き残れても、次のための資金が回りませんしね。

 まあ、ここからはいつもの単なる妄想ですけど、前回枳薮窯跡の出土例から、素焼きは最初は登り窯の一番上の焼成室でしていたかもって話をしました。それで、素焼きを思い付くまでの過程で、喜三右衛門さんも登り窯でいろんな焼き方を試してみたはずですので、焼成不良の焼け損ないにしてしまったこともあったかもしれません。そしたら、結果的にまさに素焼き状態になったりするわけです。案外、喜三右衛門さんは、「これだーっ!!」ってピーンってきたのかもですね。もちろん、何の確証もない妄想ですよ。偶然、「一度低温で焼いたらいけるんとちゃう?」ってひらめたとか…、まあ、あり得ないことではないと思いますけどね。

 普段から焚いてるわけですから、登り窯の一番上の部屋は、下の部屋から段々焚き上げていくと、自然に温度が上がって、素焼き状態になるってことくらいは容易に想像できたはずですからね。それで、最初は素焼きに登り窯が使われたかもってことです。

 でも、それを知ると、当然登り窯を供用しているみんなが素焼きをしたいってことになるわけですよ。でも一番上の部屋は一つしかないし、途中の部屋を素焼きに使われると、温度が上がらないので本焼きの方が失敗してしまうって、本末転倒なことが起きてしまうってことになります。これじゃ困るので、じゃー、登り窯の焼成室をそっくりそのまま工房内に再現したらって発想は自然に出てきそうですよね。まあ、我ながらすごい妄想だとは思いますが、意外とこんなことかもしれませんよ。

 ということで、やっと今のところ素焼きのはじまりで言いたいことが終わりました。次回からは、元の話に戻ることにします。(村)

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