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有田の陶磁史(348)

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   前回は、赤絵窯の説明をしようと思って、長くなりそうなので止めときました。本日は、たどり着ければ、赤絵窯の構造の話をします。

 前回もお話ししましたが、赤絵窯については、近代のものは、今はもう一つも残ってませんが、最近まで現存するものがありました。それから、うちの資料館の敷地内には、以前町内にあった赤絵窯を解体して移築したものもありますので、構造が分かります。近代になって今の構造の窯に突然変化したなんてことは考えにくいので、少なくとも江戸時代の途中からは同じ構造のものが使われてきたんだろうということは想像できます。

 でも、そういう構造の窯が、色絵の創始の頃から使われていたのかと言えば、それはまったく分かりません…、でした。もう30年以上も前のことですが、はじめて赤絵屋跡の発掘調査をしました。現在の有田郵便局の建て替え工事に伴うものです。現在は赤絵町遺跡という名称を付けていますが、工事してたら色絵磁器がいっぱい出てきたんですよ。

 登り窯跡だと、現地に窯壁片とか陶片とか窯道具片、焼土とか、そんなもんが落ちてるので、見慣れてくると、だいたい地表からでも地下に窯があることが分かります。でも、有田の場合、江戸時代以来の町がそのまま引き継がれて今日に至りますので、通常は工房跡があったところは現在でも家屋が建ってますので、かつてどこにどんな施設があったのか、地表からではまったく分かりません。だから、たまたま工事してたら当たったみたいなことでもない限り、発見できないのです。これは別に赤絵屋跡だけじゃなくて、窯焼き工房跡ほかどんな施設でも同じです。

 ずっと昔お話ししたことがあると思いますが、赤絵屋跡なんて掘ったって何も出ないよってのが、当時の地元の方々の意見でした。登り窯と違って高温で焼かないので、失敗しないってのが理由です。でも、メチャクチャいっぱい出るわ出るわ…。

 ところが、製品は出るのに、なかなか赤絵窯跡が出て来ないんですよ。結局、18世紀中頃と19世紀の窯は見つかったんですが、地面の下の構造だけで、地表上の構造はまったく不明でした。その後、各種の調査をしてみて分かったのですが、そもそも有田みたいなところは、工房内にある施設はほぼ全滅で、残っていることはめったにありません。というのは、単発的に窯業が営まれたところと違って、有田では連綿と窯業が営まれていますので、廃業したのでその土地は使わずにそのままなんてことはありません。その上、先ほどお話ししたように町の位置が変わっていません。そうすると、家の建て替えの際などには、みごとなくらいキレイに整地して、新しい家が建てられます。その時に、地表を平らにするために、ごそっと削ってしまうんです。ですから、地表上にあったものは、何も残らないわけです。発掘調査がすごく難しい土地柄ですね。

 ですから、いわば不動産である遺構は期待できないので、動産である出土遺物で考えるしか方法がないんですが、何しろ、赤絵屋跡の調査なんて、当時は有田どころか全国的にも例がないので、まったく参考にできるものがなかったんです。

 ということで、赤絵窯の話をしようとしてたんですが、その前振りの話をしてたら、結局窯までたどり着きませんでしたので、また、次回ということで。(村)

 

    20241211
  • 赤絵町遺跡の発掘調査区全景


 


 

 

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