前回は色絵磁器成立過程の途中まで、簡単におさらいしていました。岩谷川内山の古染付・祥瑞系の成立後、黒牟田山の万暦赤絵系の技術の成立、そして古染付・祥瑞系技術の主要な窯への拡散ってところまででした。さあ、いよいよ真打ちの喜三右衛門さんの登場です。
でも、その前に、もっと前の記事の内容と、Linkする話をさせてくださいね。それは、こういう色絵磁器が開発されたことは、横目時代の山本神右衛門重澄さんは当然知っていて、これは使えるかもって虎視眈々と機会を狙っていたはずです。
そうしたら、正保4年(1647)6月に、喜三右衛門さんが新しく“赤絵”という色絵磁器を開発して、長崎で売ったという話も耳に入ってきたでしょうね。というのは、この技術の元を喜三右衛門さんに伝えたのは、長崎で志いくわんさんから教わった、伊万里の陶商東島徳左衛門さんでしたから。実は、神右衛門さんと徳左衛門さんは、それ以前からの昵懇の仲でしたので、伝えたはずです。もしかしたら、徳左衛門さんのバックにいる影の黒幕は、神右衛門さんかもしれませんしね。
そして、同じ正保4年の9月に、江戸の佐賀藩邸より、陶工追放の命令が下されました。これを受けて、神右衛門さんは運上銀の増額案を急きょまとめるわけですが、その案の方策中に喜三右衛門さんの赤絵の普及もあったはずです。12月には初代皿屋代官を押しつけられて、直接運上銀取り立ての責任者にされたわけですから、余計に責任重大になったわけですからね。それで、それが例の赤絵が世上くわっと広まったってことに繋がるわけです。
ということで、話を喜三右衛門さんに戻しますが…、回り道してたら、すっかり何を話そうと思ってたか忘れてしまいました。あっ、そうでした。古染付・祥瑞系の技術が、有田の主要な窯場に広まったって話で終わってたんでしたね。その後、いよいよ喜三右衛門さんの出番ってことでした。
でも、その前に何度でも言いますが、古九谷様式の技術の上限が1640年代中頃、下限が喜三右衛門さんの1647年頃ですから、本当に短期の間に技術がゴチャゴチャってなったって話ですよ。ただし、技術のはじまりはそうですが、せっかく新開発した付加価値の高い技術を、やすやすと教えてくれるようなご親切な方はそうそういませんので、普及には少し時間がかかります。ですから、1650年代前半にかけて広がるわけです。まあ、それでも数年程度ですので、急展開には違いありません。
なんて、まだ脱線してたら、結局また喜三右衛門さんにたどり着きませんでした。また次回。(村)