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有田の陶磁史(350)

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  歳取ると月日の過ぎるのが早いなんていいますが、ほんと早っ!!今年もグダグダしている間にいつのまにか、年末になってしまいました。今年は役場のHPの全面変更があり、切り替えのため、このブログもちょっとお休みになってしまったこともありましたが、ほんっと、このブログぜんぜん前に進みませんね~。ちなみに、先ほど、今年のはじめにはどこら辺をうろうろしていたのか、一応、確認してみました。何と正月明けに、やっと昨年で古九谷の話が終わりましたみたいなことを書いてました。えっ??です。自分でも驚きましたが、ということは、まだ内山やら外山やらの成立期の話をしてますので、この1年間で数年分も進んでなかったんですね。やばいっすよ、これ。だって、仮に1年に歴史1年分しか進まなかったら、有田焼の歴史を話し終わるまでに、約400年かかるってことですからね。話し終わる頃には、また400年の歴史が新たに加わってるってことにもなりますし。まあ、もちろんそれ以前に、そんなに生きてませんけどね。それにしても、この一年、いったい何の話をしてたんでしょうね??逆に、よくもこんなに引っ張れるもんだと、感心したりもして…。

 まあ、こんなことぐだぐだ書いてるとますます進まなくなるので、襟を正して本題に戻ります。つっても、寄り道ばかりするので、本題を思い出すのすら…、そうでした、成立期の赤絵窯の構造の話をするってことで、しばらく脱線してたんでした。

 さて、一番最初に赤絵屋跡を調査した赤絵町遺跡では、一応、赤絵窯の床下構造らしきものは確認できたけど、結局、初期の赤絵窯というものがどういう構造のものなのか、皆目見当が付かなかったって話をしました。つづいて、幸平遺跡でも赤絵屋跡が発見されて発掘調査しましたが、ここでは、赤絵窯の痕跡すら発見できませんでした。つまり、検出遺構からは、まったく赤絵窯についてのヒントは得られなかったんです。でも、そんなこと誰に聞きようもありませんので、自力で解決するしかありません。

 あれこれさんざん脳ミソ駆使したものの、何しろ考える材料すらないわけですから、どうにももどかしいというか…。でも、赤絵町遺跡と幸平遺跡には共通して、ほかの工房跡とかにはないものがあるのに気づきました。それが、何だかへんてこりんな素焼きの甕みたいな遺物です。しかも結構いっぱいあるんですよ。そりゃ有田ですから、やきものの素焼きくらいあっても不思議じゃないけど、でも、有田で甕なんて生産してませんからね。もちろん、水甕や釉薬入れる甕なんか、それから便所甕(お食事中の方は失礼いたしました。)とか、甕はいっぱい使ってるけど、全部武雄とかのやつなんです。

 そんで、こそっと話ですが、発掘調査で出土した甕を職場に持って帰って、当時だと臨時職員、今だと会計年度任用職員っていいますが、…の方々に洗ってもらうわけですが、絶対便所甕だけは、どういうものかって説明はしないわけですよ。まあ、こちらは知ってるわけですが、何も言わないのがおもいやりってもんですから…。

 いや、そんなことはどうでもいいですが…。とにかく、有田では甕なんて焼いてないし、ましてや甕は素焼きなんてしませんからね。それに、口縁部の形はさまざまなんですが、それでも一般的な甕とは形状がちょっと違うというか類例がないんです。そんで、赤絵町遺跡の調査の時には、何だか分からないままになっていたんですが、幸平遺跡でも同じようなもんが出土したんです。

 もう、さんざんっぱら赤絵窯のことを考えてきてましたので、ピーンってきたんです。前回まで説明したとおり、近代の赤絵窯については、構造が判明しています。そんで、常々疑問に思っていることがあったんです。それが、内窯、外窯という名称です。前に近代の赤絵窯は円筒形の一方に方形の薪の焚き口を付けた、いわゆるキセル形の窯だって話をしました。そのキセル形の部分を外窯と呼びますが、その円筒形の部分の内側には、瓦状の粘土板を張り合わせて作った内窯なるものがあります。もちろん、外窯と内窯は一体構造になっており、別々の窯ではありません。ちなみに、外窯は単なる筒なので、底がありません。その筒の中に径が少し小さい内窯が組み合わせられていて、粘土製の柱なんかで底が支えられています。外窯と内窯の間は、トンバイの廃材なんかを縦方向に並べたものを一定間隔でぐるりと配して、粘土で接着してあります。そんで、外窯の焚き口から薪をくべると、直接内窯の底で火が燃えて、熱や煙は、外窯と内窯のすき間に並べたトンバイとトンバイの間を通って、上方向抜けていく構造です。製品は内窯の中に詰めますが、つまり、内窯の内部には直接炎が当たりませんので、蒸し焼きみたいな状態ってことです。高温の炎なんて直接当たると、上絵の具なんて、焼き飛んでしまいますからね。

 そんで、なぜ別々ではなく一体的に造られているものなのに、内窯、外窯って個別の名称が付いてるんだろうかって常々不思議に思ってたんです。まあ、一般の方からすれば、そんなこと不思議に思う方が不思議だとは思うんですけどね…。まあ、疑問に思ってなんぼみたいな商売ですから、職業病かもしれませんね。

 それで、前にも少し触れましたが、この赤絵窯は、実は従来から国内にあった素焼き窯とそっくりな外形をしています。唯一の違いが、内窯の部分があるかないかだけです。何度も触れてますが、古九谷様式は景徳鎮製品と同等なものを作るための技術ですから、当然、中国系の技術が導入されています。そのため、当初は赤絵窯も中国系の技術かと思ってたんですが、古九谷様式の技術をいろいろ調べれば調べるほど、意外なくらい中国由来の部分は少なくて、独自の工夫で何とかしてる部分が多いんです。だったら、赤絵窯も独自の工夫?って考えたら、な~んだってことに思い当たったんです。素焼き窯の中に、単純に例の素焼きの甕みたいなもんを入れれば、まさに赤絵窯になるじゃんって…。そう考えれば、甕みたいに口がくびれた形状になっているのも、な~るほどです。バカ重いので手では持ち上げられませんからね。たぶん、そのくびれた首の部分に縄でもかけて、滑車か何かで内窯を外窯に出し入れしたんじゃないかと…。

 そう思い立ったところで、いっぱい出土しているその素焼きの甕みたいな破片を、詳細に観察していきました。「あったーっ!!」って感じですよ。内窯の内部に上絵の具でも付着してないかなって調べたわけです。そしたらやっぱりあったんです。

 なるほど、これで外窯と内窯が個別に命名されている理由も分かります。だって、もともと取り外し可能な別々の窯だったんですから。

 まあ、そのうちお話ししますが、17世紀末頃に、有田では、内山だけではなく、有田皿山全体で上絵付け工程が分業化されます。そんで、その時以来、赤絵屋は上絵専業になって、前にお話ししたような人形類だとか、ロクロを使わない製品の生産からは撤退します。そしたら、別に製品や土型の素焼きはする必要がなくなりますから、わざわざ効率の悪い取り外せる内窯も必要なくなってくるわけです。それで、外窯と内窯を一体構造とするようになって、今日知られるような近代の赤絵窯みたいな構造になってきたってことです。

 日本の赤絵窯は、有田が発祥地だと思いますが、それが九谷とか京都とかに伝わっていくわけです。でも、有田の場合は、自分ちの事情で、途中から、外窯と内窯を合体させました。でも、それは外部に赤絵窯の技術が伝わった後のことですから、今でも…??今は薪の赤絵窯なんて使わないとは思いますが、九谷や京都なんかでは近代の赤絵窯の場合でも、内窯は取り外せる構造になってるんです。たぶん、九谷や京都では、有田のように赤絵屋が人形類などの一貫生産なんてしてなかったと思うので、逆に、本来内窯を取り外す必要なんてないんですよ。つーか、赤絵屋という職業自体、有田独特ですしね。よそでは、有田の最初の頃みたいに窯焼きが上絵付けまで一貫生産しているのならば、別に素焼きは専用の素焼き窯を持ってるはずですからね。でも、有田から17世紀中頃に伝えられたのは、内窯が取り外せる構造の赤絵窯だったわけです。それを、改良はしたでしょうけど、構造的にはそのまま使い続けて、近代に至ったってことです。

 これでやっと赤絵窯の構造が分かるようになったんです。その後、有田の小学校改築の際の試掘調査でも、遺跡そのものはほぼ残ってなかったんですが、色絵片とかもボチボチ出てきたんですが、やっぱその中に素焼きの甕みたいなんがあったんですね。それから、山辺田窯跡の工房跡である山辺田遺跡の発掘調査の際にも、同じ素焼きの甕みたいなもんがたくさん出てきました。まあ、これで最初は内窯が取り外せる構造だったってことは決定ってことでよろしいかと。

 ということで、今回はメチャクチャ長文になってしまいましたが、何とか今年のうちに赤絵窯の構造までは説明しておきたかったので、ふ~っ!てところでしょうか。もうじき年末・年始の休みに入りますので、今年はこれでブログのアップもおしまいです。来年ことは、もそっとは進む…といいな~って思いつつ、それでは皆さま、よいお年をお迎えください。(村)

 

 20241224 01

    取り外し式内窯の口縁部から胴上部の破片(幸平遺跡)左:外面 右:内面


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  • 和式の素焼き窯の図(左)と、初期の赤絵窯の構造模式図(右)


 

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