あけましておめでとうございます。今回は、長めの年末・年始の休みを、過ごされた方も多かったんじゃないでしょうか。まだエンジン全開じゃない方も多いかもしれませんが、本年もよろしくお願いいたします。
気付けば、ブログのこのシリーズも、今回で351回目を数えるんですね~。いったい、全部でどのくらいの文字数あるんでしょうね?きっと、有田の陶磁史関係の文章としては最長でしょう…、たぶん。でも、まだ17世紀中頃の話をしてるんですけどね。もっとも、有田の窯業が一番目まぐるしく変化した時期は一応こなしちゃいましたので、これからはスイスイと進むかも…?まっ、誰も信じないでしょうけど…。
まあ、それはさておき、昨年の年末に、何とか初期の赤絵窯の構造について、ムリヤリ話し終えたところでした。結局、有田の窯業って、ほかからポンって技術を入れてきて、いつも難なくその場をやり過ごしているように見えて、意外と努力してるんですよ。いや、見えてるかどうかは知りませんが、少なくとも、よく見る歴史の記述ではそう読めますよね…。
たとえば、磁器のはじまりについても、よく記されているストーリーとしては、朝鮮半島で磁器を作ってた陶工がいました。その人を文禄・慶長の役の際に連れ帰りました。その陶工は常々故国で作っていたような磁器を再現したいって願ってましたが、ようやく有田で磁器の原料を発見して、日本ではじめての磁器製作に成功しました。めでたし、めでたし、…みたいな話でしょ。いや~、長年の苦労が実って良かったね、みたいな美談。こういうの多いんですよ。でも現実は、日本ではじめて磁器を創始した朝鮮人陶工も、別に故国で作っていた磁器を再現したわけじゃなくて、生活せにゃならんので、日本で売れる中国風磁器をやっと開発したって話なわけで…。もちろん、苦労はしてるけど、もっとドライですね。ゲージュツ作品作ってるわけじゃないので。
そんで、でも、そういう美談をずっと刷り込まれると、普通は、あたかもそういう言い伝えでもあったかのように思っちゃうでしょ。それがいつの間にか定説になったり…。でも、実際は、ほとんど言い伝えなんてないんですよ。『金ヶ江家文書』に、有田を発展させたのは自分ちの先祖の三兵衛なのに、もうみんな忘れてて誰も敬わないやんって嘆いているみたいな記述があるんですが、まあ、万事がそんな感じ。古文書とか形あるものにして残さない限り、ほぼ残ってません。
そうですね…。一般的に言い伝えって思われてるようなことも大半は近代以降、ほとんどは昭和からの言い伝えですね。これを言い伝えというかどうかは知りませんけど…。考察する資料が少なくて、いろんな妄想の選択肢があったことや、研究の担い手の主力だった東京あたりの偉い美術史の大先生方が、有田の美しいやきものを通して、美しい歴史を描いたこと。美術史の方々は、本当に形容詞の使い方がお上手。いや、本当に褒めてるんですよ。でも、時々やってくるお客さんに見せるのは、いつも着飾った有田ですけどね。それから、地元の郷土史家の方々が歴史学のお作法に則らないような資料の使い方をバンバンやったこととかね。だいたいご同業者ばっかギュギュッと圧縮してるようなところに、美しい歴史なんてあるわけないでしょ。良く言えば常に切磋琢磨、常在戦場ってとこかな。
それでも、『金ヶ江家文書』や『酒井田柿右衛門家文書』とか、文書として残ってるもんもあるやんって思うかもしれませんが、でも、逆に言えば、それ以外はほとんど残ってないわけで、有田の人は、それは文政11年(1828)の内山の大火で、全部焼けてしまったからだってみたいなことも言いますけど、さすがにマユツバ物かな??じゃ、焼けなかった外山はどうなんよってことでしょ。
『金ヶ江家文書』や『酒井田柿右衛門家文書』がなぜ残ったかって言えば、そりゃ、何々を願い出たとかみたいに、官民関係というか、役所とのやり取りあるから残ってるわけですよ。役所との重要なやり取りである、公文を処分できないでしょ。こういうお役所と関わった家の文書が残ってるわけで、民民の文書って普通は残らないですね。紙なんて今以上に貴重ですから、リサイクルは当然ですから。だから、今、紹介されてる民の文書もあったりしますが、ありゃ、旧家の襖の裏貼りから剥がしてきたもんとか、そんな場合が多いです。
なんてくだらない話をしてたら、今日は歴史の話しに入れませんでした。まあ、正月ですから、慌てず、急がず…。つーか、こんなことしてるから、一向に進まないんだってことは分かってるんですけどね…。(村)