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有田の陶磁史(356)

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   前回は、「藩窯」なるものの正体についてお話ししてみましたが、実は「藩窯」の用語からイメージされるものとは似て非なるものだったんじゃないでしょうか。分かりやすいように、一般的に「鍋島藩窯」と呼ばれている大川内山の例でお話ししましたが、これは最初の藩窯…、いや、御道具山のあった岩谷川内山でも変わりませんっていうか、最初ですから、もっと初源的なスタイルです。

 岩谷川内の御道具山については、ずっと前に古九谷様式の話のところで、1回、いや2回、いやきっと何度も話していたと思いますが覚えてらっしゃるでしょうか?明治期に久米邦武が記した『有田皿山創業調子』に所収された「源姓副田氏系圖」という項目で触れられているもので、今は一般的に言われている説はずいぶんこの内容から乖離してしまいましたが、以前はこの内容を元に藩窯なるものが語られていました。前は、古九谷様式的視点で話しましたけど、御道具山的視点では話してなかったと思うので、少しおさらいしとくことにしましょうか。

 系図に登場する副田家の初代は喜左衛門日清と言います。言い伝えでは、京都の浪人だったと記します。その後、取り立てられた時、某国の副田村の出身だったため副田と称したと言います。慶長・元和(1596~1624)の頃、他の地域から松浦(佐賀県西部から長崎県北部あたりの地域)に渡って、伊万里・有田のところどころで焼いてたところ、陶業に造詣が深い京都の浪人善兵衛と出会って兄弟の契を結んだと言います。それで、つてを得て内野山に赴いて、例の高原五郎七さんという名誉の焼物師の弟子になって数年付き従ったけど、五郎七さんはケチでいっこうに奥義を教えてくれなかったそうです。

 その後、岩谷川内山に移って、五郎七さんは青磁を焼き出して世に出したと言います。そして、珍しい器を数々焼いて献上をはじめたとします。その頃、青磁の製作方法は誰も知らなかったので、岩谷川内で自称御道具山と唱えて献上したんだと言う内容です。

 以前、お話ししましたが、この「青磁」なるものを、いわゆるフツーの「青磁」だと解釈する限り、この文献の内容は矛盾だらけで理解できません。だって、岩谷川内山で一番古い窯場は猿川窯跡ですが、それでもせいぜい1630年代前半から中頃の成立ですので、もうとっくに青磁なんてほかの窯場で完成してますよ。

 実はというか、ずっと前にも触れてはいるはずですが、五郎七さんは、これとはまったく違う場面でも有田関連の文献に登場します。『酒井田柿右衛門家文書』とかにあるものですが、元和3年(1617)に南川原皿屋にきたって話です。そうそう、泉山発見したって話に続くやつです。そんで、三川内の『今村氏文書』にもありますが、柿右衛門も五郎七さんの弟子になってましたということらしいです。

 青磁の完成はおそらく1620年前後ですので、こちらの記述の内容であれば、フツーの青磁を開発しましたってことで、バッチリ年代的に合います。でも、御道具山がらみですとさすがに年代的にムリでしょ。だって、例の山本神右衛門さんが寛永14年(1637)に窯場の整理・統合を主導した時ですら、藩主を山林保護だって半分騙してやったくらいですよ。まだ、藩なんて窯業にまるで感心なしって時期ですから、御道具山なんてとてもとても…。山が荒れるので陶工追放って再び江戸の藩主から命令が出て、擦った揉んだのあげく皿屋代官が成立するのが正保4年(1647)ですから、まあ、藩が本腰入れるのはそれからです。だから、「青磁」がらみで、案外二人の人物の話がごちゃ混ぜになってるのかもですね。             

 しかも、しかも、です…。慶安4年(1651)からは将軍家への例年献上がはじまりますので、ここじゃ御道具山が成立してないといけないので、年代的に後ろも詰まってるんだな~。つまり、副田氏関連の記述の「青磁」は、1640年代後半頃の話って考えないとつじつまが合わないわけですよ。

 ということで、この後まだまだ込み入った話が続きますので、とりあえず、本日はここまでにしときます。(村)

 

 

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