前回は、岩谷川内御道具山関連で、高原五郎七さんの開発したという「青磁」なるものの話をしている最中でした。
元和3年(1617)に南川原皿屋に移り住んで、その後泉山を発見したとする五郎七さん(仮A)ならば、1620年前後に完成したと考えられるごくふつーの青磁の開発に携わっていても別に不思議じゃありません。ってか、五郎七さんは有田関連だけでなく、あっちゃこっちゃに出没しますが、どこでも伝説の名工扱いですから、青磁くらい開発しても驚きはないですね。
しかし、岩谷川内山で「青磁」なるものをはじめて開発して献上し、自ら御道具山を名乗った五郎七さん(仮B)の方の青磁は、本当にふつーの青磁なんでしょうかね~?だって、前回お話ししましたが、皿屋代官が新設されて藩が窯業を正式に藩の産業として公認するのが正保4年(1647)のことで、まあ、江戸の殿様なんかはそれまでさして関心を寄せなかったわけですが、佐賀の藩庁ですら窯業の重要性に気付いたのは、寛永14年(1637)の窯場の整理・統合以後のことです。ですから、そんな状況で青磁の開発時期である1620年前後に、藩が御道具山設立なんて発想するでしょうか?つーか、その頃、岩谷川内にまだ窯場自体ないんですけどね。ついでに言えば、寛永16年(1639)には、佐賀藩の最後の支藩である蓮池藩ができてるんですが、分け与えるにも、もうまとまった領地がないので、藩内であっちゃこっちゃ小口の領地をかき集めて与えてるんですが、何とその中に有田も入ってるんですよ。窯場の整理・統合後のことですからね。それでも気前よく支藩にくれてやったのは、やっぱ窯業なんてまだ打ち出の小槌だと思ってないからですよ。蓮池藩は現在の佐賀市内にあったので、有田なんぞは遠くて不便なので、その後、自領に隣接する場所と領地替えしてもらって、再び本藩領にはなるんですが…。だから、買い戻しはあくまで蓮池側の事情であって、別に窯業が云々って話ではないんです。蓮池側だって、窯業なんてまだ関心なかったので、やっぱ近いところに替えてねってことでしょうから。
ところで、御道具山の成立は、前回ちょびっと触れましたが、下限は慶安4年(1651)に3代将軍家光に、例年献上を開始するにあたり事前に内覧してもらった時ですから、それ以前に組織が整えられたのは確かです。ちなみに、家光って、この内覧の最中に突如震えがきて意識失って、結局意識が戻ることなく亡くなったって言います。脳卒中?かってことですが、そんな衝撃的な器だったんでしょうかね~??
じゃあ上限はどうかって言えば、1644年の明から清への王朝交代の混乱で磁器輸出が滞る以前であれば、実際に中国磁器を買って献上したりしてるんですから、別に御道具山を開設する必要なんてないんです。どう考えても、その頃の有田磁器なんぞは、景徳鎮磁器の足もとにも及びませんから、代わりになんてならないですしね。つまり、御道具山は中国磁器の入手が困難になる1640年代中頃以降ってことです。これで、だいぶ成立時期の可能性の幅が絞られてきましたね。
そんで、最初は五郎七さんBが勝手に献上して、勝手に御道具山を名乗っただけですので、その時点ではまだ正式御道具山ではないです。それから、実は正保4年の最終的に皿屋代官の創設に繋がる陶工追放のすったもんだの際に、家老の石井さんに最初に佐賀藩庁まで呼び出されたのが、皿屋の主だった窯焼きと副田喜左衛門さんでした。喜左衛門さんは前回お話ししたとおり五郎七さんBの弟子で、次回にでも詳しくお話ししますが、五郎七さんBが夜逃げした後に、正式に御道具山役に取り立てられた人物です。あえて喜左衛門さんが、皿屋代表団の一員として呼び出された理由としては、その時点ですでに御道具山役を務めていたからとしか考えられませんので、1647年にはすでに御道具山が設置されていたことになります。ですから、まとめて考えると、御道具山の設置は、1640年代後半でも、47年以前ということになるわけです。これで、最大でも2、3年の幅には絞れました。
いや~、今日は前回の話に肉付けしてたら一歩も進みませんでしたが、まだ長くなりますので、本日はここまでにしときます。(村)