前回は、前々回の話を補足していたら、一歩も前に進みませんでした。まあ、そういうこともある…??いや、そういうことだらけではあるんですが、でも、1週間もすると書き忘れたことを思い出しちゃうんだからしゃーないんだな~。というわけですが、今日はちょびっとは進めるように務めます。
前回のまとめで、結局、御道具山は1640年代後半かつ47年以前でしょうねって話をしてました。ここで思い出していただきたいのが、正式御道具山の成立以前にはワンクッションあるってことです。そう、五郎七(B)さんの自称御道具山です。
そうすると、前回お話ししたように、それ自体中国がコケる前では話が矛盾しますし、それ以前に佐賀藩では中国磁器を買って将軍家に献上したりしてますので、それよりあまり劣るものではね~って話になるでしょ。
つまり、献上品の原点なる五郎七(B)さんの“青磁”なるものは、中国磁器がコケた頃にはじまり、かつ、中国磁器とだいたい肩を並べるくらいのもんでないとあかんってことですよ。そうすると、結論は一つしかないでしょう。だって、まさか初期伊万里様式で、中国磁器の代用なんてできるわけないもん。根本的に製品のスタイル自体違うわけですから。
何だか、話がまたかつての話に戻ってしまうようですが、この頃に、中国、とりわけ景徳鎮磁器と同等品を目指して開発されたものと言えば、そりゃ古九谷様式しかないでしょ。だから、五郎七(B)さんの“青磁”なるものは、五郎七(A)さんの頃の“青磁”とは別ものってことですよ。(A)さんの頃の青磁って、もちろん初期伊万里様式ですからね。
じゃあ、(B)さんの青磁って何っですが、それこそ前に古九谷様式の話のところで触れた、鍋島報效会所蔵のアレ(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/225159)しかないでしょ。例の景徳鎮製の祥瑞とそれに倣った…、いや、忠実にコピーしようとしたって方が正しいと思いますが、有田製の大皿をセットで鍋島勝茂に献上したっていう「色絵山水竹鳥文輪花大皿」ってやつですよ。有田のは緑絵の具を内面全体には掛けきれてませんが、景徳鎮の方は、全体を緑絵の具で塗り潰したまさに青磁そのもの。色絵も古九谷様式で実現した技法の一つですしね。
つまり、想像できるストーリーとしては、五郎七(B)さんが古九谷様式を開発して、当然メチャ珍しかったわけですから、それを手本とした景徳鎮の祥瑞とともに、「こんなんできるようになりました。」ってことで「どうじゃーっ!!」みたいに献上した。まあ、赤絵の具はまだうまく発色してないし、緑絵の具は祥瑞とソックリには塗り潰せなかったけど、そこはご愛嬌ってことで…。とりあえず、景徳鎮製品とほぼ同じもんができたんですから、まずは藩主にお披露目して、褒められたんで、自ら御道具山を名乗ったくらいのとこじゃないですかね。だから、古九谷様式も御用品という意味での鍋島も根っ子はいっしょってことです。
ということで、何だかこれからの展開としては、以前お話ししたことと同じようになるかも?ですね。まあ、でも献上用製品目線では話してないですからお許しください。とりあえず、何度でも同じ話を目にすると理解が容易になりますしね。と、自らを擁護する…。とりあえず、本日はここまでにしときます。(村)