前回は、高原五郎七(B)さんのいうところの“青磁”が、ごくふつう青磁、つまり英語でいうところの“celadon”の意味だったら、絶対に『源姓副田氏系圖』に記される内容は意味つーじねーんじゃないって話をしてました。何しろ副田喜左衛門さんと善兵衛さんは、五郎七(B)さんが谷に投げ捨てた“青磁”の素焼物なんかを拾い集めて考えたってことですが、“celadon”がはじまった頃に作られていたのはバリバリ初期伊万里様式の製品で、まだ素焼きなんて技法は影も形ありまへんがな。それに、そんな頃に御道具山をはじめようにも、中国磁器との落差があり過ぎて、将軍さまにナメとんのか、いらねーって言われるのがオチ。やっぱ、五郎七(B)さんの“青磁”は、古九谷様式の色絵磁器以外にはチョットね~。とは言え別に何らかの確証があるわけでもないので、どなたかもっとシックリとくる捉え方があれば、ぜひ教えてくださいな。
でも、前にこれがまさに最初の“青磁”じゃないってことで取り上げた、鍋島報效会所蔵の景徳鎮の“祥瑞”と古九谷様式の“祥瑞手”の大皿のセットって、緑ジャブジャブだけど、青絵の具なんてまったく使われてないじゃんって不粋なイチャモンはおやめくださいな。だいたいその頃は中国自体、青の上絵の具なんて使ってないんですから。青絵の具関係な~し。だって、たとえば青々とした木々とかいうじゃないですか。木々の葉っぱって青いですか??それとか…、クソド田舎の車もほとんど通らないような道路にしか取り残されてないので今の若者には通じないかとは思いますが、青色発光ダイオードが使われる前の青信号は青じゃなくて緑だったでしょ。つまり、“青磁”=“緑磁”ですよ。
てなことを話してると一向に先に進まなくなるのでこの辺にしときますが、青磁素焼物を拾い集めて考えた喜左衛門さんと善兵衛さんは、続いて「青磁土兼テ打出ス所ノ道筋尋届色々工夫ヲ以漸サトリ再ヒ焼出シ」と記します。まあ、これは象徴的なもんを掲げただけで、何しろ五郎七(B)さんは何も教えてくんなかったので、原料から、成形技法から、あれこれ再現しないといけなかったはずです。
まあ、当時のボディーの原料は泉山陶石ですので、その中でどのあたりの石が適しているかはあったでしょうが、まさか五郎七(B)さんも、工房内にある陶石から粘土まで全部は谷に捨てられなかったでしょうから、ボディーの原料は取りあえず確保できたんじゃないでしょうか。ただ、成形が初期伊万里とは違いますので、そこら辺はちょっと工夫が必要だったかも?特に御道具の場合は、ハリ支えしないので、高台をへたらせないようにしないといけませんから。つーか、まだハリ支えの技法は開発されてないか、その直後くらいだったと思いますけどね。
たぶん、ハリ支えは山辺田窯跡で開発されたもんだと思いますが、古九谷様式の製品を商業ベースで量産することを目指した窯場ですので、ハリ支えで高台内にチビッと傷が残るくらいは大目に見てよって感じですよ。
やっぱ問題は、上絵の具の材料と調合とかかな~??最終的に赤絵窯で焼くことは、さすがに窯まではうち捨てられないので分かってたはずですからね。
後の鍋島様式の製品もそうですが、御道具の場合、基本的に使用する上絵の具は、赤、緑、黄の三色です。当時は絵の具屋さんはないので、自分で作らなくちゃいけないですから。この中で、赤と黄の呈色材は鉄ですから結構手に入りそうですが、緑は銅ですから鉄よりは苦労しそうです。ただし、製陶材料としての銅は当時も使われてましたから、探せば探せたんでしょうね。例の赤く発色させる辰砂ってやつがそうです。
ただ、単純に呈色材が手に入ったら絵の具ができるってわけじゃないので、やっぱ相当苦労はしたんじゃないでしょうかね。だから、先ほどお話しした鍋島報效会の祥瑞手の大皿なんて、赤絵の具なんてまともに発色してませんからね。緑はダラダラですし…。
ということで、大して進みませんでしたが、本日はここまで。(村)