前回は、まあムリクリってか、そうとしか考えようがないわけですが、高原五郎七(B)さんの“青磁”なるものは実は古九谷様式の色絵磁器のことで、もしかしたら、つーか、もしかしなくても、その最初期の製品が初代藩主鍋島勝茂旧蔵と伝えられる、例の鍋島報效会所蔵の祥瑞と祥瑞手が組になった大皿だったのではって話をしてました。「どうじゃい!景徳鎮と同じもんができましたぜ!!」ってので献上したみたいな…。
その五郎七(B)さんが作ったのかもって祥瑞手の方は、“青磁”の名称の由来ともいえる緑絵の具はオマケ程度にしか使ってませんが、手本とした景徳鎮の祥瑞の方はまさに“ザ・セイジー”ってほど、緑絵の具で塗り潰してますよね。
でも、五郎七さんも、本当は手本の祥瑞皿と同じように、ベターって豪快に緑絵の具で塗り潰したかったんだと思いますよ。だって、形状や下絵はほぼカンコピ、上絵の具でも黄や赤は発色はイマイチとはいえ、同じように塗ってるわけですよ。でも、緑のベタ塗りだけは、まだ技術が未熟でできなかったわけですから、きっと悔しかったでしょうね~。
もしかしたら、前に古九谷様式について話した際に触れているかもしれませんが、この緑のベタ塗りができなかった悔しさのリベンジとして開発されたのが、実は上絵の具で器面を塗り潰すいわゆる“青手”だと思うんですけどね。よく言われる、素地が粗質で汚かったからなんてのじゃなくてね。
実際に伝世品なんかだと、青手の一部の種類は、メチャキレイな素地を使ってますし、現実的に、同じ白磁素地を使っている五彩手も多いわけですから。素地を焼いてみたら、ちょっとこっちは汚く上がったんで青手用、こっちはキレイに上がったので五彩手用みたいに分けたとか…、なんてことするわけないでしょ。そんな焼成時の偶然に任せてたんじゃまるで生産計画が立たないので、産業としては成り立ちませんよ。
おっと、またいらんこと話し過ぎて、前に進まなくなるところでした…。
とりあえず、その後五郎七さんは逃亡したので、弟子の副田喜左衛門さんと善兵衛さんは五郎七(B)さんが、谷に投げ捨てたもんとかを拾い集めて、研究を重ね、やっと再現に成功したんですね。めでたし、めでたし。
そんで、「再ヒ焼出シ御用相成通出来立候末日清ハ手明鑓ニ被召成御道具山役仰付ラレ善兵衛ハ細工人頭取ニ仰付ラル」って記されるように、「御道具山」を正式に制度化し、喜左衛門さんを手明鑓(てあきやり)っていう佐賀藩士に取り立てた上で御道具山役に、善兵衛さんは細工人頭取に任命されたってことです。まあ、喜左衛門さんが佐賀藩御道具山支店の支店長、善兵衛さんが工場長ってとこですかね。
だから、言ってみれば支店長が席を構えるところが御道具山支店であって、それは必ずしも善兵衛工場長が現場を取り仕切るとこじゃなくてもいいってことですよ。まあ、御道具山支店っていうお役所ってことであって、登り窯のことを指し示すわけじゃないってことですね。さらに言えば、善兵衛工場長が所管するのも、製土から焼成までに至る一連の御道具製作の現場であって、地域の生活全般を統括する皿屋代官じゃないんですから、一つの登り窯に関わる民間の商業活動まで含めた工場長ではないわけです。つまり、こないだお話ししましたが、“藩窯”って呼ぶから藩が登り窯自体を所有したかのような錯覚を覚えて、イメージ的に間違えるってことです。
ちなみに、手明鑓っていうのは、たぶん佐賀藩に独特な身分だと思いますが、戦時には槍一本具足一領で軍役を担うってもので、正式な侍身分である平侍の下で、手明鑓の下にはさらに徒士、被官、足軽、又被官なんて階級がありました。金ヶ江三兵衛さんもそうですが、武士階級に取り立てられた有田の陶工に多かったのは被官ってやつですから、それよりも格上ってことです。
とりあえず、この正式御道具山の制度ができたのが、中国で明がコケて磁器が手に入らなくなり、代わりに五郎七(B)さんが同様なものを開発して勝手に御道具山を名乗ったけどトンズラした後、下限は皿屋代官制度の創設に連なる陶工追放命令が出された際に、喜左衛門さんが家老の石井兵庫さんに、佐賀まで呼び出された時以前ってことになるので、年代的には1645~47年くらいのどこかでしょうねってことです。
ということで、またまた今日も、ほぼ足踏み状態でしたけど、とりあえず、本日はここまでにしときます。(村)