前回は、岩谷川内御道具山時代の“鍋島”って、まだ“製品様式上の鍋島”は存在しないので、すべて“生産制度上の鍋島”ですって話から、じゃー、それってどういうものってことで、ふつーはいわゆる“松ケ谷手”なんて呼ばれている裏白の皿なんかがそうだって世間では考えられてるって話をしました。
そんで、まあ、その類いって岩谷川内山の猿川窯跡の出土品の中でも最も上質なもんなんで、たぶんそうなんでしょうけど、ところが…、これには一つ大きな落とし穴があって、残念ながら、エビデンスがまったくないんですよってことでした。
不思議ですね…。何の証拠もないのに、孫引きされてくうちに、いつの間にかそれがあたりまえのように定説化してくんですから…。でも、こういうことって、意外に珍しくないんですよ。それに、間々あるのは、次はこれを根拠として、次の説が組み立てられたりもする…。たとえば、この同じ松ケ谷手でも、高台は三方削りだけど、両側は斜め削りじゃないから、これは御用品じゃないとかね…?だから…、斜め削りのものだけが御用品だなんて、どこをどう見れば分かんのよ~??いや、それ以前に、もともと根拠ゼロのもんに、2でも3でもオマケして100でもいいけど、いくらを掛けても、結局0は0なんですけどね。
でも、誰々さんがそう言ってるよって類いの話はあるでしょうけど、残念ながら、これは宗教じゃなくて学問の話なんだな~。信じるだけじゃ、きっと救われないと思いますよ。
ということで、現状で客観的に分かることとしては、まず、岩谷川内山に御道具山があった。たぶん…。そして、そこで作られている製品の中では、松ケ谷手は一番良質なタイプであるみたいなことかな。まあ、このことから察すれば、たしかに松ケ谷手が御用品として使われた可能性は高いかもってことです。ですから、今のところ、たぶんそうかもねってくらいに捉えておいた方がよろしいかと…。
それから、くれぐれもお間違えなきようにってことなんですが、仮に松ケ谷手が御用品だったとしても、それが後の鍋島様式のように、それだけが御用品専用様式だったかどうかは分からないってことです。他にも御用品として使用されたものが、なかったとは言えないわけですから。逆に、御道具山の成立当初から、後の時期と同程度に制度が整っていたと考える方がムリかも。制度って、走りながら、現状に即して段々整えられていきますからね。
たとえば、上絵付け工程だって、最初は個々の窯焼きがそれぞれやってたもんが、1650年代中頃から赤絵屋って専門業者を創設して集住させて赤絵町を造り、少なくとも内山の窯焼きは上絵付け工程ができない制度になったとか、その後18世紀になると有田全体でも分業化されちゃいますしね。それで、かつては17世紀後半の分業化が内山限定だったって考えられてなかったもんだから、外山の窯場で色絵磁器が出土・採集されるのを解釈できずに、きっと隠れ赤絵屋だったんだってまことしやかに言われてたんですよ。これだって、赤絵町ができたら、当然上絵付けは赤絵町以外ではできないはずって思い込みに過ぎないわけです。
まあ、とりあえず、さすがに御用品まかなうのに松ケ谷手だけじゃムリでしょって理由も多少あるんで、次回はそれについてお話ししてみたいと思います。(村)