前回は、現在いわゆる松ケ谷手みたいな製品が岩谷川内御道具山製品と考えられているけど、実は、そうなんだって客観的根拠はまったくなくって、いつの間にか世間でそうなってるだけって話をしてました。まあ、製品の質から言えば、可能性は高いんですけどね。でも、だからと言って、御用品の生産制度なんてもんは段々整備されていったと考える方が良さげなんで、松ケ谷手みたいな製品だけが御用品だったって考えるのも、ちょっと走りすぎかもよってことで終わってました。続きです。
ところで、覚えてらっしゃると思いますが、そもそも御用品の生産は高原五郎七(B)さんが、“青磁”なる色絵磁器を開発して藩主の鍋島勝茂さんに献上し、御道具山を名乗ったってところが出発点でした。そんで、五郎七(B)さんが切支丹宗門改で夜逃げしたもんだから、弟子の副田喜左衛門さんと善兵衛さんが谷に投げ捨てられた素地とかを集めて、技術を再興できたので、藩が正式に御道具山支店を開設して、支店長に喜左衛門さん、工場長に善兵衛さんを抜擢したって話でした。
じゃー、この場合、五郎七(B)さんって、御道具山を名乗ったわけですが、現在世の中でイメージされている「御道具山=藩窯」って方程式でいくと、五郎七さんが登り窯一つ運営していたってことになりますよね。でも、、、、ある日よそからぱっときて、ぱっといなくなった人ですよ。御道具山って具体的には猿川窯跡のことでしょうけど、それ以前から窯はあったわけで、ムリヤリぶんどったんでしょうか??まさかね??
どう考えても、せいぜい一窯、つまり焼成室一つ持ってたか、誰かに借りてたってのが妥当な線だと思いませんか??だって、猿川窯跡の出土品って、古九谷様式の製品ばかりってわけじゃなくて、むしろ大半はごく普通の初期伊万里様式の製品ですからね。
そうだとすれば、喜左衛門さんと善兵衛さんは基本的にそれを引き継いだわけですから、正式御道具山の出発点も焼成室一つってことになりますよね。そういうと、だいたい藩の威光で、登り窯を一つ手に入れたんじゃないって大層なご発想をされる方がいらっしゃるんですが、そんなもん完全なる民業圧迫ですよ。猿川窯跡に関わってた人たちは、明日からおまんま食べれなくなるじゃないですか。ちょうどその頃、窯数が増えたって事実もありませんし。
それに、御道具山設立当初は、まだ大々的に製品配る制度なんてなかったわけですから、そんなにいっぱい焼成室持ってても、何にするわけってとこですよ。これまで何度もお話ししてきましたけど、佐賀藩って大貧乏なんですから。そんな、御用品を作ってない人まで雇えないって…。
それから、前にもお話ししたと思いますが、ちょうど御道具山ができて間もない頃の正保4年(1647)に、江戸のお殿様から山林保護のためまた陶工の追放命令が出されて、結局擦った揉んだのあげく、皿屋代官の創設に繋がったってことでした。まだ、お殿様がそんな程度にしか考えてなかった頃に、大々的に藩の窯なんて造れるはずがないでしょ。
ということで、続きの話をしたいのはヤマヤマなんですけど、まだ長くなるので、続きは次回。(村)