前回は、御道具山が岩谷川内山から直接大川内山に移ったっていう今はやりの説について、ほんまかいなって疑問を挟んだところで終わってました。たしかに、岩谷川内山から直接大川内山に鍋島様式の元になる技術が移転したのは間違いないとは思いますよ。あんなクセの強い技術は有田の窯場ではほかにはないので、ちょっと別のシナリオを考える方が難しいですから。だったら、日峯社下窯跡で鍋島様式の製品が出土してるわけだし、素直に岩谷川内山から大川内山に御道具山が移転したって考えればいいじゃんってところですが、前回説明したように、ちょっとそういうわけにもね?いや、そうかもしんないけど、根拠的にちょっと…??だって、様式はあくまでも製品自体のスタイル名であって、別に御道具山の所在を証するわけじゃないですから…。
たしかに、どうしても名前に引っ張られがちなんですけどね。ずっと前に、もしかしたらお話ししたことがあるかもしれませんが、そもそも“鍋島”なんて名前が付いたのは大正時代のことで、それが昭和初期頃にかけて普及していくわけですよ。“古九谷”や“柿右衛門”、“古伊万里”なんかといっしょに。そんで、その頃は製品のスタイルの違いを生じる要因は、生産場所差って考えられたわけです。なので、石川県の九谷産である古九谷、酒井田家産である柿右衛門、有田民窯の製品である古伊万里とならんで、藩窯製品である鍋島みたいに、生産地名が付けられたわけです。だから、この頃には名称自体に、ちゃんと意味があったわけです。
でも、詳細は省きますが、昭和30年代頃に、製品のスタイル差は、実は生産場所の違いじゃなくて、生産時期の違いじゃないって考えられるようになりました。鍋島は除きますけどね。なので、本来はその時に名前を変えておく必要があったわけです。AでもBでも何でも良かったんですよ。生産場所の違いじゃなくなったわけなので。でも、もう名前が世間に深く浸透してたんですね。学問の世界だけ動いても、全体を動かせないのがこの分野ですから。古美術とか商売にも絡んできますし。
そんで、仕方ないので名前はそのままにしといて、その後ろに単純に「様式」って語をくっつけたわけです。これは生産場所名じゃありませんよ、あくまでも製品のスタイル名ですよって意味で。もちろん鍋島様式も同様です。でも、いくら製品のスタイル名って言われても、名前はそのままなので、どうしても名前に引っ張られるのが人の常。いくら名前に意味はないって言われても、意味を感じてしまうんですね。
つーことで、鍋島様式も同様で、この様式名そのものに本来藩窯製品って意味はないわけですよ。だから、こういう様式のものが、これこれこういうように御用品として使われたって別途証拠がくっついて、はじめて藩窯製品になるわけです。
たとえば、鍋島家に伝来した図案がいくつか残っており、その中には元禄9年(1696)、宝永6年(1709)、正徳3年(1713)、正徳4年(1714)、享保3年(1718)の年号が入っているものがあります。そして、それと同じ鍋島様式の製品が発見されていますので、17世紀末以前には、鍋島様式が御用品として使われたことは確実なわけです。
また、佐賀藩2代藩主光茂さんが、元禄6年(1693)に「有田皿山代官に宛てた手頭写」が残っており、この段階にはすでに「大河内焼物方」となっており、御用品生産が大川内山に移っており、内容からもっぱら大川内山で御用品をまかなってるみたいで、ほかでも生産していたような様子は窺えません。そんで、この頃の窯である鍋島藩窯跡で出土する良質な製品は、ほぼ鍋島様式なので、この頃までには基本的に鍋島様式の製品が御用品の専用様式として使われていたことが分かります。なので、これ以後は基本的に鍋島様式=御用品と考えても差し支えないわけです。
でも、逆にそれ以前のことは分からないってことですから、鍋島様式の製品だからってことで、それが御用品であった証明にはならないですし、たしかに質から見れば、間違いなく御用品として使われただろうとは思いますが、少なくとも、鍋島様式の製品だけが、御用品の専用様式であったとは言えないってことです。
ってことで、まだ長くなりそうですので、本日はこのへんまでにしときます。(村)