前回は、佐賀藩2代藩主光茂さんが、元禄6年(1693)に「有田皿山代官に宛てた手頭写」なんかによって、それまでには鍋島様式の製品が御用品の専用様式になってたみたいですねって話をしてました。だから、それ以後は、鍋島様式の製品であることを根拠に御用品って考えても、本当はそう考えちゃいけないんですが、事実上特に差し支えはありません。問題は、証拠のないそれ以前の時期で、専用様式がどこまで遡れるかということです。
岩谷川内山から移った御道具山に関する説は、前からお話ししてますが2つです。一つはオールドな説で、『源姓副田氏系圖』にあるように、南川原山を経由して大川内山へと至るケース。もう一つが、今はやりのフレッシュな岩谷川内山から直で大川内山へ移転したって捉え方です。
岩谷川内山から大川内山に直接という説は、平成元年(1989)12月から翌1月に、大川内山の日峯社下窯跡の発掘調査が行われ、鍋島様式の製品が出土してから唱えられるようになった説です。じゃー、30年以上も経ってるからそんなにフレッシュでもないじゃ〜んって言われそうですが、ただ、その後超低空飛行が続いて、世間への認知もからっきしってとこだったんですよ。ところが、再び2次調査が平成12年(2000)に行われ、その後も次々と令和元年度の12次調査まで実施されたことにより、少しずつ鍋島様式の陶片も蓄積が増えてきたもんだから、盛り上がりを見せるようになったってことです。最初は、日峯社下窯跡なんて知ってる人すら、あまりいなかったんですけどね。今ではすっかり何の疑いもなく藩窯扱いだかちょっと驚き…。
まあ、岩谷川内山の猿川窯跡と大川内山の日峯社下窯跡の技術に類似性が見られるってことは、証拠としては客観性が高そうなので、一見スキのないようには思えるかもですね?ただ、よくよく考えてみてください。技術の繋がりと御道具山の移転って、本来は直接は関係ないでしょってことがミソかな~。だって、本当に初代副田喜左衛門日清さんを継いだ、肝心の喜左衛門清貞御道具山支店長さんも大川内山に移ったって証拠ってあんのってことですから。それに、しつこく言ってるように、この時期だと鍋島様式の製品が出土しているってことを根拠に、日峯社下窯跡が藩窯って捉え方をしちゃいけないんだってば〜。
ご存じの方もご存じでない方もいらっしゃると思いますが、大川内山の場合、窯場としての興りは唐津焼を焼いた江戸初期のことです。でも、一旦窯業地としては途絶えて、再び復活するのが日峯社下窯跡などってことです。その成立時期は、1650年代後半頃と考えていますが、大川内山直説では、だんだん年代が遡ってきており、最初は1660~80年代ってことになってましたが、だんだん後ろが削られて1660~70年代になり、今では1660年前後になってるみたいですね。
つーか、しばらくは日峯社下窯跡で鍋島様式の製品が出土しても、すぐには南川原山をポイできなかったんですよ。だから、『源姓副田氏系圖』にのっとって延宝(1673~1681)年中に御道具山が大川内山に移ったのかもってことで、下限が1680年代なり70年代なりってことになってたってカラクリ。でも、調査するたびに少しずつ鍋島様式の陶片が増えるもんだから、自信を持って後ろが削られていったってことです。まあ、本当は出土品の数は関係ないと思いますけどね…?しかも、調査の途中から、どのあたりの焼成室の近くで出土するかが分かってきましたからね。効率よくなってきたんですよ。
なお、前に猿川窯跡の廃窯は1660年代初頭頃って言いましたが、じゃー、日峯社下窯跡が1650年代後半では合わないじゃないってことになりますが、たぶん岩谷川内の人たちが丸ごと移ってきたわけじゃないですからね。少なくとも、御道具との関係が問題になるようないいやつじゃなくって、その他大勢を占める網目文の碗だとかの下級品には岩谷川内色はまるでありませんから。
いや~、もう少し大川内山の窯場の話をしようと思ってましたが、まだ続きそうですので、本日はここまでにしときますね。(村)