前回は、実は大川内山には日峯社下窯跡とほぼ同じ頃に開窯した窯場がほかにも2つ以上あって、鍋島様式(日峯社下窯跡で出土してれば、鍋島様式と言うのかもしれませんが?)の製品は出土していないけど、ほぼ同質の高台の高い白磁や青磁の皿なんかも出土してまっせ。じゃー、どういう理由でそっちは御用品じゃなくて、日峯社下窯跡の鍋島様式の製品が御用品って決められるんですかね~って話をしてました。だって、岩谷川内山時代には鍋島様式はないわけですから。まさか鍋島様式の製品に、御用品って書いてあるわけでもないですしね。でも、それなら、そういう御経石窯跡や清源下窯跡の製品も御用品だとすれば、藩窯が3つ以上あったことになって、それも変ってところで終わってました。続きです。
という感じで、岩谷川内山から直接大川内山説について見てきましたが、何度も記しましたが、実際には御道具山というのは副田支店長のいた御道具山支店の所在地の方であって、生産現場の方じゃないんじゃないですかってことです。たとえば、そう考えれば、別に御用品を生産した窯はいくつあっても構わないわけでしょ。
ところで、『酒井田柿右衛門家文書』には、次のような「申上口上」という文書があります。
「一、親柿右衛門儀南川原へ罷在、御用物之儀者不申及、方〻御大名方御誂物相調罷居候。(後略)」
親柿右衛門とは、初代柿右衛門である喜三右衛門さんのことで、これは次男の三代柿右衛門さんの文書だと考えられています。ちなみに、長男である二代は初代より早く、寛文元年(1661)に亡くなったといいます。
むかしむかしお話ししましたが、喜三右衛門さんは、もともと年木山の楠木谷窯跡に関わっていて、例の内山の再編の際、1650年代後半頃に南川原山に移ったと考えられます。だから、この文書はその南川原に移住後の話です。
前にお話ししましたが、岩谷川内山の御道具山は遅くとも正保4年(1647)以前には成立していて、慶安5年(1652)からは将軍家例年献上で本格稼働しているわけです。
ところが、この文書によれば、まさにその御道具山が稼働していたはずの時期に、「御用物之儀者不申及」、つまり、これは藩の御用品ってことでしょうけど、少なくとも喜三右衛門さんも、藩からの注文品の調達に関わっていたってことになります。そうすると、何でもかんでも御道具山で生産していたわけじゃなくて、御用品を民間からも調達していたことになりませんかね…?じゃー、話が戻りますが、当時同じ最高級品を生産した山として、大川内山にも調達先が複数あっても別に問題ないと思いませんか?
ということで、関連してもう少しこのあたりの年代について整理しておこうかと思うんですが、長くなりそうなので、本日はここまでにしときます。(村)