前回は、『酒井田柿右衛門家文書』、三代柿右衛門さんの「申上口上」の記述から、喜三右衛門さんとこにも御用品を注文してたくらいなので、別に大川内山でも日峯社下窯跡に限らず、御経石窯跡や清源下窯跡の業者にも注文してても良くないですかって話をしてました。ただ、このあたりは年代がややっこしいので、本日は少し整理しておくことにしますね。
先ほど触れた『酒井田柿右衛門家文書』の「申上口上」には、引き続き次のように記述されています。
「一、親柿右衛門隠家仕、某ニ家を渡申候時節、世上焼物大分之大なぐれニ而、大分之雑佐を仕込申候。上手之物皆悉捨ニ罷成、しばらく家職を相止罷有候。然処ニ今程焼物直段能罷成、(後略)」
喜三右衛門さんから三代目に家職が譲られた頃、世間ではやきものが大暴落して、いっぱい在庫を抱えてしまった。そんでしゃーないので、上手の物は全部破棄するはめになって、しばらくやきもの作りを止めたんだそうです。
天下の酒井田家なので、ずっと順風満帆に来てるようなイメージがあるでしょ?でも、世の中そう甘くはないようで…。たしか、記録が残るだけでももう一回は止めてたりしてますし、度々不況にも見舞われてたみたいで。有田では、「窯焼きは三代続かない」って言われてきたくらいですから、そういうことも珍しくなかったんじゃないですかね。そりゃ、当時は月一程度しか焼かないので、登り窯の不窯(焼成失敗)が続けばやばいですし、今でも同じですが、同業者が集まってるところ、まあ一本脚打法みたいなところなので、不況になると全体が落ち込むわけです。もっとも、南川原山だけ不況みたいなこともあるんですよ。だって、高級品ばっか作ってるもんだから、有田の他の地域と比べても量産化技術では劣ってるんです。だから、価格競争を強いられるようなプレッシャーには弱いわけです。まあ、三代さんの時もきっとそうなったんでしょうね。だけど、結局、今はやきものの値段も良くなってきたっておっしゃってます。
前回お話ししましたが、二代目が亡くなったのが寛文元年(1661)ですから、三代目に家職を譲ったのはその直後くらいの可能性が高いんじゃないですかね。そうすると、初代の南川原山移住は1650年代後半のことですから、寛文元年に亡くなった二代目が家職を継いでいた時期があったとすれば、前回の文書にある喜三右衛門さんが御用品の注文を受けていたとする時期は、だいたい1650年代後半頃のことになります。まあ、二代目も注文を受けてたとすれば、60年代初頭頃までってことですが。
それで、この初代の喜三右衛門さんが亡くなったのは寛文6年(1666)ですから、初代が隠居中で三代柿右衛門さんが家職を継いでいた頃となると、だいたい1660年代前半頃のことになります。つまり、この頃にやきものが大暴落していたってことです。
じゃー、この頃に何があったかと言えば、思い当たるのは、1650年代中頃から内山の効率的大量生産確立のための窯業の大再編がはじまり、この体制整備がほぼ完成しつつあった時期である1659年からは、オランダ東インド会社による大量輸出がはじまったということです。
この改革によって、山ごとの製品ランク別生産体制が確立し、南川原山がサイテーの山からサイコーの山に激変するわけですが、南川原山自体にも結構窯場ができて、下南川原山に従来からあった南川原窯ノ辻窯跡に加え、柿右衛門窯跡や平床窯跡などが設けられ、上南川良山に樋口窯跡などがありました。まあ、最初は本当にクソ良質な製品ばっか作ったのは柿右衛門窯跡だけなんですが、ほかの窯場も内山レベル以上は維持されてました。
それに加えて、内山もなかなかのもんが作れたんです。以前古九谷様式のところで話したと思いますが、17世紀後半の有田の主たる後継技術になったのは、喜三右衛門さんが開発した「赤絵」(染付製品なども含めた技術の総称です)の技術ですから。特に内山の技術は南川原山とは兄弟みたいなもんですからね。
つーことで、もう少し話しが続きそうなので、また次回ってことで…。(村)