前回は、初代柿右衛門さんが隠居して、三代柿右衛門さんに家職が譲られた頃、世間ではやきものが大暴落して、いっぱい在庫を抱えてしまったもんだから、しゃーないので、上手の物は全部破棄して、しばらくやきもの作りを止めたんだそうですよって話をしてました。そんで、天下の酒井田家と言えども、なかなか順調な時ばっかじゃなかったみたいですよってことでした。そう言えば、この順調な時ばっかじゃなかったって説明が、ちょっと言葉足らずだったような…?本来の話題である御用品生産制度にもメチャクチャ関わることだし、高級品生産ってのがどういうものか分かりますので、もう少し例を話しておくことにしますね。
少し時代は飛んで、六代柿右衛門さん(1690~1735)時代の享保8年(1723)のことです。佐賀藩に提出した「口上手続覚」という文書なんですが、この中におもしろいこと…、いや、酒井田さんちにとってはとっても不幸なことなんで不謹慎ですけど、内容は南川原の窯業のはじまりから、例の高原五郎七さんの話、赤絵はじまりの話なんかが、一、一、一、みたいな感じで続いて、最後に次のような一文があります。活字として原文が掲載されることはあまりないので、ちょっと長いですが、引用しときます。
「一、右之通代々相相続仕来候処、近年御道具御注文等も仰下げ無之年に増し相衰え、不及某儀は申に絵書細工人荒使子躰之者迄職業無之日に増し難渋相重年老之者共空敷相休童子よりは其職仕習不而は不相叶候処、右之職退転仕候場に而壮年之者共に而は上品之仕習罷在候故、脇山罷出候而も懇望に預り候得共、風雨之折は遠方他出不相叶空敷相休候儀間々有之、日数相続不申、然処米穀高値に付而は毎日相桛(かせぎ)候而も日用暮兼難渋相重り候故、己前之通用之筋被仰付下度伏而奉願上候事。御神祖様巳来是迄相伝職業退転仕候儀如何に茂無是悲参掛り歎け敷次第奉存候。以上。
享保八年」
というものです。
藩へのお願い文なんで、この記録のミソはこの引用した最後の一、の部分で、これが言いたいがために、この文章の前に、例によって、うちの先祖こんなに凄いんだからってことがズラズラと書かれているわけです。
何が書いてあるかと言えば、何となく文字づらからも雰囲気は伝わってくると思いますが、きっと読むのメンドクサイと思いますので、全文訳すと長くなりますので要点だけ記しとくことにします。この前の文章で、以前は御道具の注文を受けて、柿右衛門焼として江戸や上方は言うまでもなく、大明(中国)まで賞美されて、代々相続してきたみたいなことが記されます。
ところが、近ごろは御道具とかの注文もないので年々零落して、自分はもちろん絵書き、細工人、荒使子(あらしこ:雑役夫)などまで仕事がなくて難渋しているんだそうです。そのため年寄りは休まざる得ないし、子どもは技を習得できないのでやっぱ仕事を休むし、壮年の人たちは上級品の作り方を身に付けているため、雑器生産の脇山で作るように懇願されても、風雨の際は遠方に行くこともできず、往々にして休むことがあって、日数が稼げまへん。米価が高騰して毎日稼いだとしても、日常生活がままならなくなってますから、前のとおり御用品を仰せ付けてね。お願い!!ってな具合です。ちなみに御神祖様というのは、藩祖の鍋島直茂のことで、それ以来伝え続けてきたのにって嘆いてらっしゃいます。
ねっ、柿右衛門さん喘いでいるでしょ。まあ、それはいいとして、重要なのは、酒井田家の経営体質です。『酒井田柿右衛門家文書』には注文帳も残っており、詳しくは別途お話しする機会があると思いますが、佐賀藩に限らず各地の大名関係からも御用品の注文を受けています。つまり、酒井田家が御用品を生産したかどうか以前に、代々御用品の注文を受けないと経営が成り立っていかない体質となっていたってことです。だから、時々御用品の注文がない時期に当たると、アップアップになるわけです。享保8年頃と言えば、大川内山の制度も整ってバリバリ生産している頃ですから、わざわざ酒井田家に注文する必要もなかったのかもしれませんね。なので、この文書のように他の窯場への注文がお休みの時期はあるにしても、もちろん鍋島様式は大川内山の専売特許であることは間違いないですけど、やっぱ御用品という大きな括りでは、すべて大川内山ってのは成り立ちませんねってことです。以上。(村)