前回は、ちょっと寄り道して、酒井田家の悲劇についてお話ししてました。たぶん、皆さん思ってた以上に、御用品漬けにされてて、いざ注文が途絶えると、突然家が傾くほどの経営体質になってたってことです。まあ、そんなくらいですから、藩が直接生産を主導する窯場に限らず、御用品は調達されていたってことです。つまり、以前の話に戻りますが、藩窯というのは窯場のことじゃなくて、御用品調達組織、副田支店長がいる御道具山支店と捉える方が妥当じゃないかと思えるわけです。
続きですが、もう少し酒井田さんちの話をさせてくださいね。以前お話ししていた続きですが、初代柿右衛門さんが隠居して、三代柿右衛門さんに家職が譲られた頃、世間ではやきものが大暴落して、いっぱい在庫を抱えてしまったもんだから、しゃーないので、上手の物なのに全部破棄して、しばらくやきもの作りを止めたんだそうですよって話をしました。そんで、その時期がだいたい1660年代前半頃で、この頃何があったかと言えば、有田の窯業の大再編が行われて、1659年には、オランダ東インド会社による大量輸出がはじまったってことでした。
そんで、『酒井田柿右衛門家文書』「申上口上」の前に引用した部分、例の「御用之儀者不申及」ってやつですが、省略したその続きは以下のようになっています。
「然者、赤絵者之儀、釜焼其外之者共、世上くわっと仕候得共、某手前ニ而出来立申色絵ニ無御座、志ゝ物之儀者、某手本ニ而仕候事。」
ということで、この後に前々回引用したやきもの大暴落の部分が続くわけですが、これによると、喜三右衛門さんが開発した赤絵を窯焼きとかその他の人がドバドバってやり出したみたいですね。でも、それって、自分が作った色絵じゃなくて、世上にあるもんなんかは、自分のもんを手本にしてそういうやからが作ったもんでっせっておっしゃってます。
これは、大昔にお話ししたはずですが、喜三右衛門さんが1647年頃に赤絵の開発に成功して、1650年代前半にかけて古九谷様式が有田じゅうに普及した事実と合致します。それで、50年代後半には、内山で上絵付け工程が分業化されて、生産はよりシステマチックになって、効率的に大量生産できるようになったわけです。
まだこの時期には柿右衛門様式は完成してませんので、生産品の様式的には南川原山も内山も変わりません。違いは質差くらいです。それから、前々回ちょびっと触れましたが、この時期には南川原山にも結構窯場があって、柿右衛門さんちの使っていた柿右衛門窯跡よりちびっと質的に劣るかな~って製品が作られてました。まあ、レベル的には平均的に内山と同じか、柿右衛門窯跡と内山の間ってくらいかな。
そうすると、バリバリ最高級品を作っていた柿右衛門さんちは、そりゃ困るでしょうよ。違いは多少の質差くらいなんですから。でも、今のブランド品でもいっしょですが、この多少の質差を生み出す部分に、相対的にたくさんのコストがかかるわけですよ。でも、よほどの目利きならともかく、同じようなもんをわざわざ高い値段出して買います?しかも、その似たようなもんは、効率的に大量生産されてるわけですから、現代の米騒動とは逆に、モノがだぶつけば値崩れも起こすってもんです。
でもね~。柿右衛門さんちょっとお休みってサラッて言ってますが、そう簡単には止められのが当時の窯業なんですよ。だって、共同窯である登り窯使ってるわけですからね。しかも、一番いいもん作ってたわけなので、たぶん結構良さげな焼成室を押さえてたはずですしね。
ってことで、中途半端ですが、まだ話は続きますので次回ということで。(村)