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有田の陶磁史(380)

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  前回は、喜三右衛門さんが開発した「赤絵」なるものを、1650年代前半頃までに有田じゅうの窯焼きほかの人たちがくわっと仕ったけど、それってうちで作ったもんじゃありまへんでっておっしゃってました。そんで、1650年代後半になると有田の窯業の大再編によって、酒井田さんちも南川原山に移ったわけですが、59年からはオランダ東インド会社による大量輸出がはじまったって話をしてました。そうすると、少なくとも南川原山の柿右衛門窯跡以外の窯場や内山なんかは、様式差はなく質的にも大差ないもんだから、柿右衛門さんち大ピ~ンチになって、とうとうしばらくやきものやめたってことでした。でも、当時は本焼きには登り窯を使ってるので、そう簡単にや~めたっていかないんですよってとこで終わってました。

 ちなみに、喜三右衛門さんが開発したのは「赤絵」って呼ばれてますが、もう一度確認しておきますが、何も色絵磁器ばっかじゃないですからね。そもそも製品の質やスタイル自体から変わるわけなので、染付製品ほかも含めての話です。つまり、ドンピシャ技術の確立期と同時期の景徳鎮磁器の類品である、「赤絵」という種類の製品を作る技術ってことです。

 ってことで、話を元に戻しますが、登り窯使ってると止めるっても何が困るかと言えば、地区の共同窯ですからね。たとえば、時期はぐっと下がりますが、文政12年(1829)の『酒井田柿右衛門家文書』によると、柿右衛門さんちは下南川原山登に焼成室を2室持ってらっしゃします。当時の下南川原山の窯と言えば、南川原窯ノ辻窯跡のことですが…。そうすると、空の部屋のままでは焼けないのが登り窯ですから。いや、焼いてもいいですが、その空の部屋も焚かないと熱や炎が上の部屋に登ってかないですけど、空のまま焚いても一銭にもなりませんから、そんなことする人いないでしょ。そもそもそんなことができる余裕があれば、休止する必要もないわけですし。だけど、きっと柿右衛門さんは完全に廃業するつもりはないでしょうから、第三者に譲り渡すわけにもいかず…。

 それに、そもそも許可証である「釜焼名代札」持ってる人じゃないと窯焼きはできないわけですし、もちろん札の貸し借りは禁止されてますので、そうそう譲り渡すところもありません。

 じゃー、どうしたらいいでしょうね?ってことなわけですが、誰か譲れる人がいるとすれば、アレかな~?って妄想を披露したいのはヤマヤマなんですが、長くなりそうなので、本日はもったいぶったところで終わり。(村)

 

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