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有田の陶磁史(381)

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  前回は、寛文時代(1661~73)の前半頃に、高級品市場が値崩れを起こして、柿右衛門さんちは窯焼き止めてましたって話をしてました。そんで、でも登り窯使ってる関係上、そんなに簡単には譲れる人がいないので困ったもんだって話をしてました。でも、その後だいぶ景気よくなってきたんでもう一回やりたいな~、御道具注文してちょうだいって話でした。続きです。

 毎度、小難しい柿右衛門さんちの文書ばかり引っ張り出してきて恐縮なんですが、本日も一つ。「覚」って題されている文書の一つです。

 

一、本釜 壱間

一、唐臼小屋 壱ツ

願之通被仰付被下候様ニ筋〻宜被仰上可被下儀、偏ニ奉願候。以上。

 

一、御道具屋 壱ツ

一、唐臼   弐丁

一、大車   弐丁

一、赤絵釜  壱ツ

一、米    五俵

一、銀    弐百目

右之通、今度公儀御焼物方ニ付而、出来立候内、如書載被下由申来リ候条、可被得其意候。巳上。

      大続覚左衛門

 十一月廿九日

      山田善五衛門

酒井田柿右衛門殿

 

 この中で、「本釜 壱間」というのは、ご承知のとおり、登り窯の一室ってことです。それと、「唐臼」とは、ご存じかと思いますが、陶石を粉砕するために川の中に設置された施設のことです。これを下げ渡してねって頼んだところ、もっと奮発して藩から下げ渡しがあったって話です。

 つーか、正確に言えば、この中でちょっとだけ文献史学の方の間でも意見が分かれていることがあって、それは「公儀」という単語をどう解釈するかってことです。これって、柿右衛門さんちに登り窯の一室や唐臼小屋みたいに不動産ほかを譲るって話ですから、柿右衛門さんちとあんまり離れたところを譲られてもかえって迷惑ですよね。普通考えたら、柿右衛門さんちのある南川原山の施設のお話しって考えるのがふつーでしょ。

 その場合、何で柿右衛門さんちに譲るのかって理由ですが、「公儀御焼物方ニ付而」って書いてありますが、この「公儀」というのが、佐賀藩のことなのか幕府のことなのかによって、ちびっと解釈が異なってきます。

 他家の例でも両方あって、「大公儀」つまり幕府と、「公儀」つまり藩と分けてるところと、「大公儀」は使ってないとこがあると言います。「大公儀」を使わない場合は、通例では、「公儀」は幕府のことを指すことが多いんだそうで、佐賀藩では、少なくとも現在残る文献上では使い分けはしてないそうです。ということは、通例に従えば、柿右衛門さんちは幕府の焼物方を務めていたってことになって、もちろん藩を通じてでしょうが、幕府の御用品を生産していたことになりますよね。

 もっとも、仮に公儀が藩のことであっても、藩の御用品を焼いていたことになりますから、御用品の生産に関わっていたことには変わりないんですけどね。

 それはそうとして、この文書にはもう一つ注目しないといけないことがあるんですが…、もうお気づきの方もいらっしゃると思いますが、長くなるので、また次回ということで…。(村)

 

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