前回は、柿右衛門さんちの「覚」って文書、つっても「覚」っていっぱいあるんですけど、そのうちの一つをご紹介していました。重要な家なので、いっぱい忘備録として残しておかないといけないことがあるんでしょうね。記録しておくほど、大層な生活してないもんには縁がないですね。
内容としては、柿右衛門さんが、
一、本釜 壱間
一、唐臼小屋 壱ツ
を払い下げしてくださいなってお願いしたところ…、藩からは、どうやら登り窯はくれなかったみたいですけど、
一、御道具屋 壱ツ
一、唐臼 弐丁
一、大車 弐丁
一、赤絵釜 壱ツ
一、米 五俵
一、銀 弐百目
そのかわりに、こんなにいっぱいオマケを付けてくれたみたいですね。それは、「公儀」の焼物方を務めたかららしいです。この「公儀」も、前回お話ししたように、幕府とするか藩とするかって見解の相違があるみたいですが、まあ、とりあえず、幕府なり藩なりの焼物方、つまり御用品生産に関わっていたことは間違いありません。
そんで、重要なのはここからです。柿右衛門さんが払い下げを願ったものや実際に藩がくれたもんには、動産と不動産があります。動産としては米や銀があって、これはまあどうでもいいです。問題は不動産の方です。
この「覚」には年号が記されてないんですが、登り窯の焼成室や唐臼をちょうだいねってお願いしているくらいですから、その頃、たぶん柿右衛門さんちはそれを持ってなかった時期で、一番合理性がありそうなのは、稼業を止めてた時期で、またやりたくなったのでくださいなってお願いしたってことじゃないですかね?そうすると、以前紹介した文書にある高級品全然売れなくって止めたけど、また景気よくなってきたんでまたやりたいねってことで、また御用品注文してくださいなって願い出ている三代柿右衛門さんの1660年代頃かそれに続く時期の可能性が高いように思えます。
実際に、この頃のことと考えれば、合理的な解釈ができるんだな~。だって、払い下げしてねってことは、藩がその頃そうした不動産を実際に保有してたってことでしょ。しかも、とりあえずいらなくなったので、払い下げてもいいかってなるわけでしょうから。
そんで、藩がそんな不動産持ってる可能性のある場所としては、今風の説では、岩谷川内山か大川内山の藩窯ってことになるけど、南川原山の柿右衛門さんが岩谷川内山の施設もらっても、あまりに非効率で維持するのが大変。ましてや、大川内山なんて論外。今でも自動車で30分近くかかるのに、毎日テクテク歩いてそんなとこまで、わざわざ通えるはずがないです。
ということで、やっと大昔の本題に戻ることができるんですが、やっぱ、柿右衛門さんが貰ったのは、南川原山の施設以外ちょっと考えにくいですね。そうすると、藩は南川原山に窯業関係の不動産を所持してたってことになります。これって、御道具山が岩谷川内山から直接大川内山じゃなくて、やっぱ必然的に岩谷川内山から南川原山、そして大川内山に移ったことになりませんかね。時期的にも、南川原山に御道具山があったとするのは、寛文年中って言いますから、だいたい1660年代のことですしね。
と、ここまでお話ししといて、また次回もう少し詳しく検証してみることにします。(村)