前回は、柿右衛門さんちが登り窯の焼成室や唐臼小屋の払い下げを藩に願い出て、焼成室はなぜかくんなかったけど、道具小屋とか赤絵窯とか、唐臼小屋とかロクロとか、その上銀や米までけっこうオマケ付けてくれたって話をしてました。そんで、その「覚」の文書には年号が入ってないんだけど、どう考えても合理的な解釈が成り立ちそうなのは、柿右衛門さんちが不況でやきもの止めてたけど、三代目がもう一回やりたいな~って思った時期に近い頃かなって話でした。
ただし、本当に三代の頃かどうかは分かりません。何しろ年号ないんですから。それに、三代柿右衛門さんはもう一回御道具注文してちょうよってお願いはしてますが、それが実現したって記録はないですから。もしかしたら、四代目になって実現したかもしれませんしね。そこらへんは、ちびっと詳しく説明しないと、ちょっと年代が込み入ってるんですよ。
というのは、前にもお話ししましたが、二代目柿右衛門さんが亡くなったのが寛文元年(1661)ですから、これ以前に三代目が稼業を継いでいた可能性はあまりありません。当時は、基本長子相伝ですからね。そんで、初代が隠居して三代目に譲ったって話になってましたが、この初代が亡くなったのが、寛文6年(1666)ですから、必然的に稼業を譲られたのは寛文元年から6年の間ってことになります。そんで、その頃は柿右衛門さんちは大不況に陥ってしまって、やきものを止めることになってしまったわけですね。
でも、だんだん景気よくなってきたんで、もう一度やりたいな~ってことになって、だから御道具をまた注文してねって藩に願い出ているわけですが、藩からの返事が残ってないのか色よい返事がもらえなかったのか分かりませんが、でも、藩から色よい返事がくれば、「覚」連発の柿右衛門さんちのことですから、ちゃ~んと「覚」を残しとくんじゃないですかね。
まあ、とりあえず、時期的には景気がよくなったのは、初代が亡くなって後のことでしょうから、1660年代でも後半のことのはずです。ところが、残念ながら、この三代も寛文12年(1672)には亡くなっちゃうんですよね。景気よくなりそうな矢先って感じですかね。よって、四代目が柿右衛門を継いだのは、その翌年くらいでしょうか?喪中に襲名祝いなんてできないですからね。だから、現代でも、そんくらいで継ぎますしね。
で、翌年はつまり寛文13年(1673)ってことになりますが、実はこの年の9月21日に改元されて、延宝元年になっています。覚えてますか?御道具山の移転に関して記した、唯一の史料である『源姓副田氏系圖』。それによると、副田喜左衛門日清さんから数えて三代目の副田藤次郎清長さんの項目に「延宝年中御道具山大川内へ移居屋敷永代御免地ニ被仰付」ってなってます。よーするに、延宝年間に南川原山から大川内山へと御道具山が移転し、御道具山支店長の副田さんちも大川内山に移り住んだってことです。
ねっ、そうすると寛文年間に御道具山で使っていた南川原山の施設はすっかりいらないことになるでしょ。それを柿右衛門さんちに下げ渡したとすれば、すごくシックリくるわけですよ。たぶん、これ以上シックリとくる捉え方ってないんじゃないですかね。
そうすると、やっぱ御道具山は岩谷川内山から直接大川内山じゃなくて、間に南川原山を挟んでいたことになるわけです。微々たる高級品しか焼いてない大川内山と違って、南川原山は基本的に山まるごと高級品焼いてるわけですから、当時としては副田さんちが管理する御道具山支店は南川原山に置いとく方が、調達のやり繰り上とかはるかにメリットは大きいはずですからね。
ということで、本日はここまでにしときます。(村)