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有田の陶磁史(384)

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   前回は、藩が柿右衛門さんちに、唐臼小屋やら赤絵窯やらあれこれ払い下げをするって「覚」は、寛文12年(1672)に三代目の柿右衛門さんが亡くなった後、四代目が稼業を継いでからじゃないですかね~、って話をしてました。

 つまり、『源姓副田氏系圖』にあるとおり、寛文年間(1661~73)頃には御道具山は南川原にあり、延宝年間(1673~81)には大川内山に移されたので、藩が持ってた窯業関連の不動産が必要なくなった。そんで、御用焼物師であった酒井田さんちにあげるわってことになったって筋書きです。ですから、不遜にも現在の通説に逆らって、ここでは御道具山は岩谷川内山から直接大川内山じゃなくて、間に南川原山を挟むって捉え方をしたいなって思っているわけですよ。

 ちなみに、しつこいかもしれませんが、長々と記してきましたので、これまでお話ししてきた内容をいちいち覚えてられませんよね。自分でもそうですから…。なので、ちょっと振り返りしときますね。

 そもそも、現在の通説である岩谷川内山から大川内山へと直接移転という話の根拠は、あくまでも考古学的な発掘調査による両山の技術の類似性であって、文字史料なんかが残っているわけじゃありません。いや、このブログでは南川原山を間に挟むって捉え方に一票ですが、あくまでも、岩谷川内山と大川内山の技術の類似性について否定しているわけじゃありませんよ。むしろ、お話ししたように、積極的に直接技術移転があった、つまり、人々の移動があったって考えています。でも、それと御道具山の移転は別の話では?って言ってるわけです。

 たとえば、示したように酒井田家も初代柿右衛門時代とか、つまり岩谷川内山に御道具山があった時期にも、御用品を製作していることは、例の三代柿右衛門さんの「申上口上」に、「親柿右衛門南川原へ罷在、御用物之儀者不申及、」や「赤絵物之儀も先年之様ニ被仰付可被下候。」とあることからも明らかです。つまり、御用品のすべてを御道具山で賄っていたということではないことが分かります。

 よって、大川内山で鍋島様式の製品が製作されていても、それだけが御道具として使用されたとは言えないということです。しかも大川内山では、1650年代後半頃にほぼ同時に開窯した窯場は、現在藩窯と目されている日峯社下窯跡だけじゃなくて、少なくとも清源下窯跡や御経石窯跡などもあります。3窯ともにコンセプトとしては、まん中がスッポリ抜けた、最高級品と最下級品を一つの窯場で組み合わせてるってことで共通します。ただ、日峯社下窯跡だけが、現在古美術業界なんかで初期鍋島として位置付けられてるもんが出土しているってことです。

 じゃー、御経石窯跡や清源下窯跡なんかで出土している高級品の方は何様式?ってことですが、出土品が主に白磁や青磁なので、高台の外側面に文様を配するものがないってだけで、高台も高いし、きっと日峯社下窯跡で出土していれば、鍋島様式って言うでしょうねって類いのもんなわけです。

 これって、日峯社下窯跡で高台の外側面に塗り潰し文様を巡らすってルールが確立したので、そこにしかないだけとちゃいまんの?って思ってしまいます。少なくとももっと後になれば、そういうものが御用品の専用様式として使われたとは言え、これら3窯が併存していた時期からそうであったってエビデンスはどこにもないわけです。

 たとえば、当時南川原山に御道具山、つまり副田さんの管轄する御道具山支店があったとすれば、そこを拠点に日峯社下窯跡からも調達するし、御経石窯跡や清源下窯跡からも、それから酒井田さんちからも調達するってシステムであったとしても何の矛盾もないわけです。

 ってことで、もうちょっとこの話を続けようと思いますが、まだ長くなりそうなので、本日はここまでにしときます。(村)

 

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