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有田の陶磁史(385)

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   前回は、御道具山って、現在の通説である岩谷川内山から直接大川内山じゃなくて、やっぱり昔々から言われているとおり、間に南川原山を挟んでたんじゃないですかね~って話をしてました。

 つまり、少なくとも岩谷川内に御道具山があった時期には、そもそも鍋島様式自体がなかったわけで、よーするに古九谷様式と呼ばれているものの中に御道具が存在していたわけです。それが大川内山では、なぜ突然、高台の外側面に塗り潰し文様を巡らすような、いわゆる初期鍋島様式の製品が御道具の専用様式ってことになるんでしょうね?ってことです。

 その鍋島様式が開発されたのは、大川内山の中でも日峯社下窯跡という窯場ですが、同質の製品はほかにも清源下窯跡や御経石窯跡にもあるわけで、単に、高台側面の塗り潰し文様がないだけです。それで、何を根拠に塗り潰し文様を巡らす方は御道具で、ない方は御道具じゃなかったって言えるんでしょうね?

 もちろん、後にはそういうもんを専用様式にしたんだと思いますよ。でも、岩谷川内山にはないのに、直で御道具山が移転したのなら、何で大川内山ではそれが突然専用様式って発想になるのか疑問ってことです。専用様式になるにしても、少し時間かけていいんじゃないですかね。

 確かに、鍋島様式はオリジナリティーの高い様式で、圧倒的に磁器の生産量の多い有田には皆無です。つまり、その生産量で圧倒する有田などで、同じものを作らせなきゃ、藩としては、一銭も掛けずに、付加価値を高くすることができるわけです。それに気付くまでに、きっとちょっぴり時間が必要じゃないってことです。

 話は戻りますが、1660年代前半頃に、酒井田さんちが景気悪いので、磁器生産や~めたって時期がありました。お話ししたとおり、酒井田さんちは、ほんとズブズブに藩の御用品漬けにされてたにも関わらず、いきなりハシゴを外された感じで、三代目の頃には注文してくんなくなっていました。そりゃ困りますよね。

 でも、もし、その頃には御道具山が南川原山にあって、そこで藩が自ら生産していたとすれば、話は違ってきます。先ほどお話ししたとおり、たぶんその頃だと、まだ鍋島様式だけが御道具の専用様式にはなっていなかったはずです。というか、南川原山を間に挟むとすれば、そこには鍋島様式はないわけですから、そうとしか捉えられません。

 そうすると、藩の御道具山で生産していたものも酒井田さんちで生産していたものも、製品の様式としては同じはずです。だったら、わざわざ酒井田さんちに注文する理由自体なくなりますよね。

 ということで、本日はここまでにしときます。(村)

 

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