前回は、きっと南川原山に御道具山があったとされる寛文(1661~73)頃までは、藩が所有権を持つ南川原山の登り窯の焼成室…、例の三代柿右衛門さんからの払い下げしてよって文書にあるように、一室持ってた可能性が高いように思いますが…、そこで自前で生産した以外にも、大川内山や南川原山なんかの複数の窯場から御道具を調達してたんじゃないですかねって話をしてました。
つまり、まだ大川内山の日峯社下窯跡のオリジナルスタイルである鍋島様式だけが御用品の専用様式としては確立しておらず、その他の様式のものも適宜使われていたのではってことです。
そうだとしたら、やはり何も御道具山をわざわざ大川内山に置いとく必要がないですよね。だって、御用品にしたいクラスの上質の製品をウジャウジャ生産していたのは、当時は大川内山じゃなくて南川原山ですからね。
ただ、この時期藩が所有していた南川原山の登り窯の焼成室と言えば、たぶんというか、ほぼ間違いなく柿右衛門窯跡だと思いますが、そうすると、生産していた製品の様式的には、柿右衛門様式が完成する以前の、染付製品で言えば、いわゆる藍九谷なんて呼ばれているタイプのものとしか考えられないわけです。柿右衛門窯跡の出土品でも、この時期にその他の特殊な製品なんて見当たりませんしね。そうすると、藩直営で生産していたものも、酒井田さんちで生産していたものも同様なものってことになりますから、あえて酒井田さんちに御用品を注文する理由がなくなります。
初代の喜三右衛門さんの頃から、酒井田さんちはズブズブの御用品漬けにされてきたわけですから、いきなりハシゴを外されて御用品の注文を打ち切られると、そりゃ工房の生産体制ズタズタでしょう。だから、寛文期と言えば、一般的には経済発展して景気の良かった頃ですし、有田自体も本格的な海外輸出時代を迎えて絶好調って時期に、酒井田さんちだけが一人負けって状態になったのかもしれませんね。
前にお話ししたように、柿右衛門さんちは、藩に登り窯の焼成室一部屋と唐臼小屋を払い下げてくださいなってお願いしたところ、唐臼小屋ほかいっぱいオマケまで付けてくれたけど、なぜかその中に本窯の焼成室は含まれてませんでした。理由は分かんないですけど、まあ、あえて思い当たることをお話ししておくと、登り窯造り替えるからかもしれませんね。
藩が窯室を持ってたとすれば、柿右衛門窯跡って話をしましたが、そこにはA、Bの2つの窯体がありました。同時並行ではなく、B窯が古く、その廃窯に伴ってA窯が築かれたと考えられます。そのB窯からA窯への移行が、たぶん1670年代頃、つまり延宝年間頃だと考えられます。つまり、払い下げるにも窯自体がなくなったってことです。
ということで、本日はここまでにしときます。(村)