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有田の陶磁史(387)

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   前回は、寛文期(1661~73)っていう貨幣経済が発展し、国内の景気も安定的に推移して、有田は海外輸出でウハウハ、大市場の江戸の整備も進みつつあって、磁器市場から中国は撤退したままだし、まさに有田にとって我が世の春が訪れつつあったような時期だったわけですけど、柿右衛門さんちだけは逆に大不況に見舞われてたってご不幸なことになってました。

 その原因の一つは、別に史料はないですけど妄想的には、柿右衛門さんちって初代喜三右衛門さんの頃から、藩にズブズブの御用品漬けにされてたもんですから、いざ御道具山が南川原山に移ってきて、柿右衛門窯跡っていう柿右衛門さんちと同じ登り窯の一室を使うことになったら、注文してくれなくなって万事休す。たとえば、大川内山の製品なんかだと、南川原山の御道具山とは違うスタイルの製品が作られてたんでバッティングしなかったですけど、柿右衛門さんちと南川原山の御道具山製品だと、完全に同タイプの製品になってしまいますからね。

 でもね。それでも、たぶんその後も藩は柿右衛門さんちに注文してくれなかったみたいですよ。6代柿右衛門さんの頃の享保8年(1723)付けで「口上手続覚」って藩に出した文書の控えを残してますから。これ、前に一部引用したことがあるんですが、ツラツラと先祖の由緒を書いて、近年ぜんぜん御道具なんかの注文してくれないんで、自分もだけど、職人達も難渋してます、だから注文してねって感じで…。なので、再び注文が来だしたのはこの後でしょうね。

 まあ、詳しくは機会をあらためてお話ししますが、藩の注文来ないからって、そりゃ御道具の話であって、藩関係や他の大名その他なんかからの注文自体は受けてるんですよ。たとえば、元禄4年(1691)3月付けの「御内様御用御焼物」って注文帳なんかも残ってますから。その前の貞享5年(1688)にも、下級役人2人の連名なんで本人たち用じゃなかったと思いますが、刺身皿26枚となます皿33枚とかね。

 まあ、でも17世紀後半には藩はあてにならなくなってしまったわけですから、柿右衛門さんも食ってくためには何とかせにゃあかん。まあ、それでメチャ努力したんでしょうね。注文のなかった延宝頃から元禄頃って言えば、柿右衛門様式は完成させるし、矢継ぎ早に古伊万里様式も形にしてしまうみたいに、逆に、一番いいものを作りだした時期なんですよね。生活かかってるので、真剣さが違いますよ。それに、海外にも結構売ってますしね。

 ってことで、柿右衛門さんちのことは、後ほどその時期についてお話しする際に詳しく触れるとして、次回はじゃー大川内山はどうなったって話をしてみたいと思います。(村)

 

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