前回は、柿右衛門さんちが柿右衛門様式や古伊万里様式みたいな最新トレンドの製品を完成させたのは、実は、藩から御用品の注文がもらえず、アップアップしてる最中だったって話をしてました。よほど危機感があったんでしょうね。火事場の馬鹿力ってやつでしょうか。
南川原山製の柿右衛門様式の製品がヨーロッパなんかに輸出されてたのはよく知られてますが、柿右衛門さんちもしてたのかどうかは定かじゃありませんが、柿右衛門窯跡の出土資料見ると、実際には南川原山では芙蓉手みたいなごく汎用的な輸出品も結構作っていますし、中には龍鳳見込み荒磯文鉢みたいな東南アジア向けの製品もいくらか見られます。まあ、当時は高級品ばっか作ってても、まだまだ国内では売るとこ限られるでしょうしね。とは言え、さすが南川原山って感じで、ひと目でそれと分かるくらい質はいいですけどね。
一方、同じ高級品を生産した山でも、大川内山の場合は生産スタイルがまったく異なります。どこかでお話ししたことがあると思いますが、南川原山が基本的に山丸ごと良質な製品を生産したのと異なり、大川内山の場合は、最上級品と最下級品を一つの窯場の中で組み合わせており、まん中がスッポリ抜けています。
近くにある技術は、ほぼ間違いなく混じります。ですが、高級品を生産しようと思えば、南川原山のように全部高級品生産にしてしまえば、混じりようがありません。というか、実際には内部で混じってるんだと思いますが、同質と同質、水に水を混ぜても水にしかならないみたいなもんです。
一方、大川内山の場合は、あまりに異質なものどうしが組み合わせられており、混じりたくても接点がありません。まあ、いわば水に油を垂らしたようなもんです。製品の質だけじゃなくて、高級品はほとんど皿、下級品はほとんど碗みたいに器種すら接点がありません。
これは、1650年代後半~60年代頃に操業した日峯社下窯跡に限らず、御経石窯跡、清源下窯跡などにも共通します。というか、1660年代くらいに開窯するんだと思いますが、鍋島藩窯跡も同様で、これは御道具山が大川内山に移ってからも引き継がれる生産スタイルです。
先ほど近くの技術は混じるって言いましたが、ですから大川内山の場合も、高級品の皿は高台が高いみたいに、器形などは窯を問わず類似します。それに、筆による文様や陰刻文様なども、いかにも出自が岩谷川内山って感じられる独特な雰囲気も共通します。また、南川原山と違って、海外輸出向けらしい製品は、上・下ランクの製品ともにほとんどありません。いや、正確に言えば、チビッと試しに作ってみました程度にはありますよ。でも、ほぼ国内向けの製品を作った山です。
まあ、南川原山とは、たとえばそういう違いとかがあるんですが、詳しくは次回お話しすることにします。(村)