前回は、大川内山の御経石窯跡や清源下窯跡はもちろんですが、日峯社下窯跡もきっといわゆる藩窯じゃなくて民窯だと思いますけどねって話をしてました。
3窯ともに、技術の出自的には岩谷川内山です。だから、染付や陰刻などの文様の雰囲気も類似性があり、そんな文様は有田の窯場の中でも岩谷川内だけって感じです。3窯ともに、皿などの器形も似てますしね。まあ、本当は3窯じゃなくて4窯かもしれませんが…。ほぼ知られてませんが、清源上窯跡ってのもあって、ただ、磁器片や窯壁片が少し採集されているだけで、たぶん同じ頃だと考えられてますが、窯体も何も分からないので、ほぼ名前が登場することはありません。
でも、その中で、日峯社下窯跡で、後の鍋島様式のルーツに当たる施文などのルールが確立されたってことです。つまり、出自は有田の岩谷川内山ですが、鍋島様式自体は大川内山で完成しているため、有田には鍋島様式の製品はありません。
この大川内山の各窯場ですが、はじまりはおそらくいっしょというか、出土資料的にみても時期差はありません。まあ、もっとも大川内山の成立は、有田の内山の窯業の再編に端を発する外山も含めた大シャッフルに起因しますので、同じようにこれを契機として窯場が成立する、同様に下級品生産地である有田の応法山などと同様です。応法山でも、窯の谷窯跡や弥源次窯跡、掛の谷窯跡などが一気に成立しています。
この応法山の窯業ですが、1670~80年代頃に、弥源次窯跡と掛の谷窯跡は窯場が廃止になり、応法山では窯の谷窯跡だけに統一されます。ついでに、広瀬山や下南川原山なんかも同じですね。
突然、何の話?って思うかもしれませんが、つまり、大川内山も同じじゃないですかねって話です。日峯社下窯跡も御経石窯跡も清源下窯跡も窯体は1基だけで、窯場としては続いていません。出土資料を見ても、3窯跡ともに廃窯時期に特に差は感じられません。そんで、逆に1660~70年代頃に、現在鍋島藩窯跡と呼ばれている窯場が開窯しているわけです。
窯差はありますが、17世紀中頃に成立した窯跡は、あまり焼成室数が多くなく、全長も短いものが多いです。大川内山の窯場でも、日峯社下した窯跡は比較的大きく、焼成室数15室、全長約52mほどと推定されていますが、御経石窯跡は12室の全長約48m、清源下窯跡の場合は8室程度で全長32mほどと推定されています。
しかし、その後の窯体になると、個々の焼成室も大きくなりますし、焼成室数も増え、構築にトンバイを使う部分が増えますので、丈夫で長持ちになります。ただ、鍋島藩窯跡では、まだ成立期の窯体は発見されてませんので、一般論として推測するしかありませんが…。つまり、窯場が統一されても、今まで2、3室所有していた人でも、焼成室が大きくなる分、1部屋でも済んでしまうってことです。
ってことで、本日は、この辺までにしときます。(村)