前回は、大川内山の窯業は、1650年代中頃から60年代初頭頃にかけて行われた、有田内山の窯業の整備に起因して、外山も巻き込んだ全体がシャッフルされた窯業の大再編によって成立したことをお話ししていました。いや、正確に言えば、大川内山には、まだ唐津焼しかなかった時代には窯場があったんですが、磁器の成立以前になくなってしまい、その後、有田由来の技術で、1650年代後半頃に磁器の生産地として復活したってことです。
そのため、現在詳細が不明な清源上窯跡を除けば、日峯社下窯跡や清源下窯跡、御経石窯跡などが、下級品生産の山としてほぼ同時に成立しました。これとよく似ているのが、同じく下級品生産の山である有田の応法山で、やはり1650年代後半頃に、窯の谷窯跡や弥源次窯跡、掛の谷窯跡などが一斉に開窯しています。
ちなみに、以前お話ししたことがあるような気がしますが、どこに山があったかということが判明する最も古い史料である、承応2年(1653)の『萬御小物成方算用帳』には、大川内山は見られませんので、それ以後に成立していることは確実です。っていうと、すぐに大川内山は藩窯だったので特殊だったのではって考える方がいらっしゃいますが、だから…、南川原山なんかとは違い、大川内山は“山”としては決して高級品生産の場所ではなくて、下級品生産の地域なんですよ。ぜんぜん特殊じゃないだってばー。つーか、少なくともこのブログでは、山の成立期にはやっぱ大川内山に藩窯なんてなかったと思いますよって言ってるわけですからね。
それに、『萬御小物成方算用帳』の場合は、たとえ大川内山が特殊だったとしても隠すはずないんですよ。だって、表に公表されるもんじゃなくて、それ自体残ってるのが不思議なぐらいなもんなわけですから…。なので、この年以外のものは知られていません。つーのは、少なくとも佐賀藩の場合は、小物成、つまり年貢とか呼ばれる大物成じゃなくてその他の雑税のことですが、それって、藩主の身の回りのことやら、軍事費やらに当てられているんですよ。軍事費公表します…??あの藩は軍事費いくら持ってるかなんて分かったら、攻められまっせ。つまり、軍事機密なので公表なんてしないわけです。
この有田の窯場がどこにあったかって情報やら、そこからどれくらいの上がりがあったかなんて記録は、実は、『萬御小物成方算用帳』やら『皿山代官旧記覚書』みたいな佐賀藩内部の一部の目にしか触れられなかったもの以外には、ほとんどありません。
たとえば、江戸時代に幕府が各藩に命じて作らせた国絵図ってのが慶長、正保、元禄、天保の4回あります。財政や土地の生産力を把握するための郷帳とセットで作成させたもので、それを視覚的に示したものです。でも、こういうのって、石高つまり大物成を把握するためのものなので村とかは詳細に載ってますが、皿山関係はまったく記述がありません。
たとえば、正保4年(1647)の国絵図の場合だと、当然、もう磁器がバリバリ作られていた時代ですけど、有田の窯場のあった付近の地名としては、南川原村、外尾村、岩屋川内村、広瀬村はあるけど、それぞれの地区の窯場を示す南川原山、外尾山、岩屋川内山、広瀬山なんかは記されていません。もちろん、当時実在はしてますよ。
また、窯業がバリバリの最盛期だった元禄14年(1701年)ですら、下南河原村、南河原村、外尾村、広瀬村はあっても山は記されておらず、内山でも岩屋川内村やその村の内として、上幸平山村や上泉山村の記載があるに過ぎません。
有田には村のほか、町や宿、山という地区の区別がありました。でも、郷帳の一種である郷村帳にはその他の地名も載ってますので別に隠してるわけじゃないですけど、お米の取れる村しか掲載されてないってことです。何度も言いますが、特に内山なんてお米の生産なんてほぼないに等しいくらいで、主力産業はもちろん窯業でほぼ町や山で占められています。なので、村の名称だけ記されても、何だか実態とかけ離れていすぎて違和感ありありですね。
それに、その内山の村とされる泉山村も上幸平山村も、地区名のルールから言えば、何だかヘンテコリンな名称です。だって、山は窯場のある工業地、村は田畑のある農業地を指すからです。重ねて使うのは変。こういうのは、すでに江戸時代の中でも混乱があって、現在の泉山地区の名称は、時期によって泉山村になってたり、泉村になってたりします。この場合、山の意味を陶石の採掘地である泉山のように地名の一部として捉えるか、窯業地の意味で捉えるかによって違いが生じます。一方、上幸平地区の場合は、メインストリートに面した平地の部分が上幸平町で、その背後の丘陵部などは上幸平山です。上幸平山村なんて場所は、現実的にはどこにもありません。
まあ、おそらくこれは、上幸平山の一部で僅かながらも、お米が取れたってことでしょうね。でも、お米の取れるところは村であって山じゃない。そんで苦肉の策として、どこにも存在していない上幸平山村なんて名称を付けたってことでしょう。なので、この地名は元禄の絵図以外には使われていません。
このように、窯業地帯である山というのは、多くの人の目に留まるような形では、ほとんど存在は示されません。本当は、国絵図にはないけど、藩の財政上は大きかったんですけどね。なので、逆に詳細に小物成の徴収できる場所やその額などが記されたものは珍しいし、内々のもんですから、わざと大川内山を記さないことなんてないわけです。だって、仮に当時存在していたら、大川内山の小物成の額も記さないと計算合わなくなるでしょ。
何だか、本日はほぼ雑談に終始してしまいましたが、とりあえずここまでにしときます。(村)