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有田の陶磁史(392)

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   前回は、承応2年(1653)『萬御小物成方算用帳』には大川内山は記載されておらず、その時期にはまだ窯場が成立していなかったって話から、別に藩窯だったから隠していたわけじゃないってばーって理由を説明していたら、何にも進まずに終わってしまいました。本日は、ちと話を進めたいですね。

 つーことで、前々回は大川内山の窯場に限らず、1670~80年代頃に有田皿山の各山の窯場の多くがほとんど一斉に廃窯になって、ひと山一つの窯場だけになったみたいですよって話をしてました。たとえば、下南川原山では柿右衛門窯跡が廃窯になり、南川原窯ノ辻窯跡だけになりますし、上南川良山はその時期にはもともと樋口窯跡しかありませんし、外尾山も外尾山窯跡だけ、黒牟田山も多々良の元窯跡だけで、応法山は弥源次窯跡や掛の谷窯跡がなくなって窯の谷窯跡だけに、広瀬山は香茸窯跡がなくなって広瀬向窯跡だけになります。

 外山ばっかりですね~ってことになりますが、実は本当は内山にも変化があったのかもしれないんですが、分かんないんですわ。だって、その頃の内山の窯場って、もろ今の町と被ってるところが多いもんだから、発掘調査もできないし、同じところでずっと窯を築き直してるので、19世紀の最後の窯の位置は分かっても、それより前の窯の状況ってあんまり分からないんですよ。

 ネタばらしすると、内山の窯場の多くは、安政6年(1859)の『松浦郡有田郷図』に描かれている登り窯の位置を元に窯跡名が付けられてるんですよ。典型的な例が、上幸平地区から大樽地区の現在岩尾對山窯って窯元があるあたりかな。前登窯跡、西登窯跡、大樽窯跡なんかが狭い範囲に集中してるんですが、『松浦郡有田郷図』にそうなってるから3つの窯跡名が付けられてるだけで、それ以前はどんな位置関係で窯跡があったのかなんてさっぱり分かりません。

 余談になりますが…、つーか、余談ばっかですが…、昔々まだ日本が景気がよくて浮かれていた頃、このあたりに道路を建設する計画があったんですよ。ちょうどJR佐世保線沿いの場所です。あのね~、計画するのはいいけど、このあたりは窯跡だらけで、さっきの窯場のすぐ上の方にも中樽窯跡があったりするわけです。こういう内山の窯場って300年近くも同じような場所に窯が築き続けられてるもんだから、一帯が物原だらけなんですよ。しかも、たぶん深さは軽く10mはあるはずです。こんなもん、事前に発掘調査したら、地形が変わってしまって、計画どおりの道路になんてなりまへんがな。つーか、内山の窯場って碗とか小皿とか小さいもんが主体なんで、地面の下は小さい使い捨てのハマと窯から掻き出した砂がびっしり堆積した層なんです。そんなもん、発掘調査で掘ってる側から崩れてきますわ。それに、いったいそんな発掘した日には、どんだけ陶片出てくるもんやら。想像しただけで怖い。

 だって、かつて小溝上窯跡って、初期のせいぜい30年程度継続していた窯場を、全体の3分の1程度掘った時ですら、収蔵用のコンテナ5,000箱ですからね。300年間続いた、しかも複数か所の窯場の発掘調査なんて、どう考えてもムリ。小溝上窯跡の時だって、取り上げた遺物洗うのに3年、さらに出土地点や層などを個々の遺物に記す注記って作業に3年かかったんですよ。継続期間が30年と300年ってところから、仮に10倍の50,000箱出土品があったとすれば、水洗いと注記で60年かかることになるでしょ。そんなもん、サラリーマン生活一生かけても終わりまへんがな。

 いや~、今回もまた話が横道にそれて一歩も進みませんでした。各山の窯場が一つになったところが多いって話をはじめたところでしたが、実際には内山の窯場の変化も多少は分かるんですが、長くなるので本日はここらへんまでにしときます。(村)

 

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