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有田の陶磁史(393)

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   前回は、くだらない話をしてたら、それだけで終わってしまいました。本日は、本当に話を前に進めます。

 何の話をしてたかと言えば、大川内山の窯場に限らず、1670~80年代頃に有田の各山でも窯場が統合され、登り窯が一つだけの山が増えたって話でした。外山では、上・下南川原山、外尾山、黒牟田山、応法山、広瀬山と、すべての山で窯場が一つだけになっています。でも、内山は山の多くが現在の住宅地と重なっているため発掘することができないため、あんまりよく分かんないってことから、話が脱線したんでした。

 内山でも、住宅地と重なってなくて窯場の動きが分かるところもあるんですが、大川内山とちょっと違って難しいのは、有田の場合は窯場の数が多く、結構短期の間に窯場が増えたり減ったりするので、そのどのできごとに起因するのかを判断するのがちょっとね~ってことです。

 たとえば、大川内山ができるのは1650年代後半頃ですが、その原因となった有田の内山の窯業の再編に伴う有田全体に及ぶ窯場の大シャッフルは、1650年代中頃~1660年代前葉くらいまでの間に適宜行われています。

 そんで、逆に大川内山で窯場が統合されるのが1660~70年代頃なので、仮にこの大川内山の窯業の変化によって有田の窯場に何らかの影響が及んだとしても、大川内山の開窯から窯場の統合までの期間が比較的短期間であるため、その統合の影響による変化であることを正確に把握することはなかなか難しいんです。

 まだ有田の17世紀後半の窯業についてはほとんどお話ししていませんので、ここで詳しく説明するとかえって混乱しますので、少しだけ触れることにしますが、たとえば、こういう可能性も考える必要があるって例を示すと、下南川原山などはおもしろいストーリーがあります。下南川原山では、柿右衛門窯跡が1680年代頃に廃窯になり、窯場が南川原窯ノ辻窯跡だけになりますが、逆に、ほぼ同時期に開窯する窯場があります。それが、泉山に位置する年木谷3号窯跡です。

 何それ??って感じかもしれませんが、実は、この泉山は17世紀中頃までは年木山と呼ばれていました。年木山と聞いてぴーんっとくる方は、なかなかのもんですね。

 この年木谷3号窯跡にも1640~50年代頃の窯がありましたが、廃窯になっています。つーか、この年木山の窯場は、ほぼ同時にすべて廃窯になってるわけですが、その窯場が枳薮窯跡や、それからここではしつこいくらい登場した楠木谷窯跡などです。例の初代柿右衛門である喜三右衛門さんが、「赤絵」を開発した窯のことです。

 この年木谷3号窯跡の17世紀末頃の製品は、他の内山製品と比べると器形や絵付けにちびーっと違和感があります。じゃー、どこと比べると違和感がないかって言えば、下南川原山の製品です。たぶん、南川原窯ノ辻窯跡の製品に混ぜると、見分けがつかないかもしれませんね。

 つまり、1650年代後半に全員じゃないとは思いますが、喜三右衛門さんらは年木山から南川原山に移りました。でも、逆に1680年代頃には、下南川原山の人たちが柿右衛門窯跡の廃窯に伴い、再び元は年木山であった泉山に戻ってきて窯場が復活した可能性が高いのです。

 そんで、もう一つ同じように窯場が復活する場所があります。岩屋川内山です。長吉谷窯跡は、少し廃窯が遅く1660年代後半くらいまで窯が存続した可能性が高いですが、その他の猿川窯跡や岩中窯跡、天神町窯跡などは、1660年代初頭頃までには廃窯になっており、長吉谷窯跡の廃窯とともに、一度岩屋川内山そのものがなくなります。その一部の人たちが流れ着いたのが大川内山ってことです。ところが、1670~80年代くらいに猿川窯跡が復活するんです。

 大川内山も含む有田皿山代官管轄の窯場で窯焼き(窯元)をするには、「釜焼名代札」という鑑札が必要です。この札の数が決まってますので、廃業などにより多少札数と窯焼きの数に違いが出ることもあったでしょうが、おおむね同様な数だったはずですので、窯自体は廃窯になっても窯焼きの数は変わりません。つーことは、どっかに焼くための窯が必要ってことです。さて、大川内山の人たちはどこに行ったんでしょうね?

 ってことで、長めになりましたので、本日はこのへんまでにしときますね。(村)

 

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