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有田の陶磁史(394)

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   前回は、結構窯場って増えたり減ったりしてるんですよって話をしてました。そんで、たとえばおもろいところでは、1650年代後半に楠木谷窯跡も含まれる年木山の窯場が全部廃止になって、逆に、ちょうどその頃、下南川原山の柿右衛門窯跡なんかが開窯しますが、この開窯に関わったのが喜三右衛門さんとかを含む、もともと年木山にいた人の一部でしょうねってことを話してました。

 そんで、時は移って1680年代頃になると、逆に柿右衛門窯跡が廃窯になって、もとは年木山と呼ばれていた泉山に年木谷3号窯跡って窯ができて、これが製品が南川原山に近い、つまり、柿右衛門窯跡の廃窯に伴って、また泉山に舞い戻ってきた人がいたってことでしょうねって話をしてました。

 窯焼きをするには、数が決められている「釜焼名代札」を持ってないといけませんので、そう簡単に窯焼きの数も増えない代わりに、大きく減ることもないわけです。どっかを減らせば、どっかを増やす必要があるってことです。

 じゃー、大川内山で日峯社下窯跡と御経石窯跡、清源下窯跡、もしかしたら詳細が分からない清源上窯跡もかもしれませんが、そういう3つないし4つの窯場が、現在鍋島藩窯跡と呼んでいる窯場に統合された際には、どうしたんでしょうねってことです。まあ、段々窯の規模は大きくなりますので、窯が新しくなったら、その分、今まで焼成室2室持ってた人でも、一部屋で済むようにはなるかもしれません。でも、さすがに3、4窯分の窯焼きを一つの窯で賄おうとしても、物理的に焼成室数が足りなかったと思いますよ。

 以前お話ししましたが、そもそも大川内山には磁器創始以前の陶器窯はありましたが、その後窯業自体が途絶えて、復活するのが1650年代後半のことです。つまり、大川内山自体には、磁器生産の窯業の下地はなかったってことです。ということは、あぶれた人たちを吸収しようにも、どこにもあてがう窯がありません。別に大川内山に限らず、伊万里自体にこの頃には磁器を焼成した窯はないですし…。

 じゃあ、遡って大川内山の窯場を創業した人たちはどこからきたのかってことですが、大川内山には下地がないわけですから、元から大川内山にいた人たちではないってことです。何度もお話ししてますが、ごく少数の上質な製品を生産した人たちは、有田の岩谷川内山からの移動組と考えて間違いありません。でも、その他大勢の下級品生産の人たちも、やっぱり有田からの移住組と考えないとつじつまが合いません。ただし、上級品と違って下級品の場合は、ほとんど大本の岩谷川内色はありませんので、必ずしも岩谷川内からとは限りませんが…。

 ということで、本日はここまでにしときます。(村)

 

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