前回は、大川内山に1650年代後半頃に窯場が新設された時、日峯社下窯跡や御経石窯跡、清源下窯跡、そんでもしかしたら実態の不明な清源上窯跡も加えた、3ないし4窯の陶工たちは、上級品を焼いた人たちは有田の岩谷川内山だと思いますが、その他大勢の人たちも岩谷川内山とは限らないけど、どっちにしても有田から移住したんでしょうねって話をしてました。そんで、これらの窯場は、同じ場所に新しい窯が引き続き造られることなく、ほぼ一斉に廃窯になって、たぶん現在鍋島藩窯跡と呼んでいる窯の場所に統合され、その際にあぶれた人はやっぱ有田に戻ったんじゃないですかねってことでした。
これ以上突っ込んだ話をしようと思えば、有田のことにも触れないわけにはいけなくなりますが、この大川内山の話になる前に有田の窯業では1650年代後半から60年代初頭頃の窯業の大シャッフルについて、たしか話しているところでした。ですから、もう少し先のことまで話しを進めないと、大川内山の窯場の廃窯のことと足並みが揃いません。つーか、大川内山も有田皿山の一部ですから、歴史背景が掴みにくくなります。
ということで、今回は大川内山の窯業について、少しだけまとめておくことにします。
先ほど触れましたが、大川内山の窯業は、内山の再編に端を発する、有田の窯業の大シャッフルの一環で新設されました。これは、内山の窯業を海外輸出の拠点をすべく、技術の平準化や効率化を行うべく、技術的に合わない人たちを西北部の窯業地に移転させた出来事です。これにより、内山、外山という区分ができあがりました。
内山の技術に合わない人たちってどういう人かって言えば、一つは初期伊万里様式の生産者です。当時の内山には引き続き初期伊万里様式風の製品を生産する人たちもいれば、古九谷様式の製品を作る人たちも混在していました。そうすると、困ったことが起きます。技術・技法が複雑に混じるんですね。しかも、それぞれ混じり方が違うもんだから、メチャクチャ製品構成が複雑になるわけです。つーことは、いろんな製品が混じるほど、生産効率も落ちてくるってことです。
そのため、当時皿屋代官であった山本神右衛門の代官としての総仕上げになるわけですが、抜本的な窯業の効率化を進めることにしたわけです。
まずその中から、初期伊万里様式の業者を引っこ抜いて、西北部の地域に移動させます。その際に、応法山や大川内山のように、窯場が新設される場所もありますし、広瀬山のように従来の広瀬向窯跡に加えて、香茸窯跡ができたような山もあれば、おそらく外尾山なんかは外尾山窯跡の中に複数の窯が築かれることになりました。
一方、初期伊万里様式のような下級品も規格外ですが、あまりに上等品ばっか作る人たちも逆に規格外です。トロトロと手間ヒマかけて最高級品ばっか作られてたんじゃ、量産ができませんからね。こういう人たちは、一番端っこに追いやられました。それが、一つは楠木谷窯跡などを中心とする人たちで、この人たちは南川原山に移って、下南川原山に柿右衛門窯跡や平床窯跡なんかが新設され、南川原窯ノ辻窯跡なんかも、それまで有田でサイテーなもんを作ってたのに、一気に上手の部類の製品が生産されるようになりました。
そして、もう一つは岩谷川内山の技術が移転してできあがるのが大川内山ってわけです。ですから、この大川内山の場合は、最上級品生産のグループと最下級品のグループが、一つの窯場の中で同居することになったわけです。そうすると、本末転倒で従来の内山と同じように技術が混じらないのってことになりますが、あまりにも技術レベルが極端に違い過ぎて、混じりようがないってことです。まん中スッポリ抜いちゃったってことですね。
こうやってできあがるのが大川内山の窯業ですが、長くなりますので、この続きはまた次回お話しすることにします。(村)