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有田の陶磁史(397)

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   前回は、1650年代後半頃に大川内山では日峯社下窯跡や御経石窯跡、清源下窯跡などの窯場が一斉に開窯し、各窯チビッとの高級品と大半のゲテモノを組み合わせて生産されてたけど、しばらくして日峯社下窯跡で、現在、鍋島様式と呼ばれているような種類が生み出されたって話をしてました。そんで、その頃にはまだ鍋島様式だけが御用品専用様式だとは決まっておらず、寛文期には御道具山支店も岩谷川内山から下南川原山に移って、支店長の副田喜左衛門さんも南川原山の支店に勤務しつつ、適宜いろんなメーカー(窯)から御用品を調達していたのではってことでした。続きです。

 岩谷川内山に正式に御道具山が設けられた際に、御道具山役、つまり支店長に任命されたのが副田喜左衛門日清さんでしたが、その時いっしょに細工人頭、つまり工場長に任命されたのが、喜左衛門さんと同じく高原五郎七さんの弟子だった善兵衛さんでした。この善兵衛さんは、その後の足取りはまったく不明なんですが、まあ、当時そんな制度があったかどうか知りません、つーかないでしょうが、定年退職でもしてなきゃ、南川原山でも一応登り窯の一室は、藩がキープしてたみたいですから、いっしょに行ってるでしょうね。

 何度も言いますが、藩窯って言うから混乱するわけで、あくまでも御道具山ってのは、お役所のことで、登り窯のことじゃないですよ。たぶん南川原山時代に藩も使ってた窯は柿右衛門窯跡のことだと思いますが、くどいですが、民窯の一室を藩が間借りしてただけってことですよ。そんで、不足分は適宜民間から調達。

 これは、今風に言えば、アウトソーシングってやつですね。御用品ブランドとして出すなら、OEMみたいなもんかなっ。善兵衛工場長が指揮して、自前で焼くのは、まあ、製品企画のためみたいなもんかもですね。こんなん作ってねってサンプル。後はアウトソーシングすれば、固定費も安くつきますしコスト削減に繋がりますからね。

 だって、直営で御用品焼いてる人は藩に採用された準公務員ですから給料払わなくてはいけないですから、いくら同じ登り窯を使ってるといっても、御用品に関わってない人まで雇えませんよ。くどいですが、藩が登り窯を所有してたんじゃなくて、民窯の一室を藩が間借りしてたってことなんで。自慢じゃないですけど、佐賀藩って本当に貧乏だったんだってばー。そんな気前よく、みんなに給料をばらまけるわけないでしょっ。つっても、多くの方々はピンとこないんだな~。でも、この貧乏を前提にしないと、歴史が見えてきませんぜ。

 だったら、またまた話はそれますが、貧乏話を一つ。時は正保4年(1647)のことです。本日の本題から10数年から20年くらい前のことですね。で、この年の12月に、はじめて皿屋代官の制度ができて、初代代官として山本神右衛門重澄さんが任命されるわけですが、このご仁、当時横目って役職で有田あたりの現地の監督官をしてて、何とか窯業を打ち出の小槌にしてやろうと、虎視眈々と狙ってたんですよ。でも、便利屋さんなんで、ほかにもいろんなことやらされるんですよね。それはいいとして、この山本さんは、江戸のお殿さまから代官に任命するってお手紙が届いた時に、どこで何してたと思います??

 実は、家老の石井兵庫さんの指示で、長崎出張中だったんですよ。何しに?ってことですが、もちろん物見遊山じゃないですよ。それどころか、この山本さんは、今はやりの働いて、働いて、働いて、働いて…って人ですから。ワークタイムバランスなんぞは完全スルー。だって、代官に任命された後も12月31日まで有田で働いて、その足で佐賀に帰ったと思ったら、翌日の元旦そうそう、もう伊万里で働いてるくらいですからね。

 そんで、長崎へは、何と藩の借金の返済と、新たな借用のためのお使いに行ってたんですよ。借金返済して、その足でまた借りてくるんですから、完全なる自転車操業ですね。まだ、鍋島家の藩政になって、40年しかたってない頃ですよ。なので、藩の貧乏具合が一番身にしみて分かってる山本さんだからこそ、何とか磁器生産を産業として育て、一文でも多くの運上銀ヒネリだそうと、いろんな知恵を絞ったわけですよ。ですから、御用品も作らない、ムダな陶工雇ってるような余裕なんてあるわけないでしょ。

 ってことで、本日はここまで。(村)

 

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