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有田の陶磁史(398)

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  前回は、いかに佐賀藩が貧乏だったかって話をしてました。本題じゃないですけどねっ…。石高だけだと、35万7,000石もあって、時期によって変動はあるけど、だいたい300くらいあった江戸時代の藩の中でも、石高ランキングではベスト10に入る大きさなので、超裕福、ブルジョアっぽく見えるんですけどね…。

 だけど、「五州二島の太守」なんて呼ばれて、島津、大友と九州を3分していた龍造寺隆信の家臣をそのまま引き継いでますからね。ほぼ、佐賀と長崎の一部だけになった領地にしては家来多すぎ。銭かかる。

それに、鍋島家はその龍造寺家から領地を禅譲されてますから、元主家筋のおっきい私領(自治領)を持ってる家臣が、ゴロゴロいますからね。たとえば、ここでもよく登場する人では、多久家とかね。2万1,735石。武雄鍋島家が2万1,600石。白石の須古鍋島家が8,200石。それに、今は長崎県の諫早家が2万6,201石。この龍造寺四家と呼ばれる「親類同格」という家格のとこだけで、8万石弱ですからね。2万石超えだと、普通の藩のランクでも、150~160位くらいにはランクインですから、300藩あったとすればまん中あたり。あくまでも、これでも大名じゃないんですから。

 ついでに、この龍造寺の力が強くなり過ぎないように、「三家」とされる小城、鹿島、蓮池なんかの支藩まで作るし、ほかにも「親類」だの、「家老」だの、「着座」だのって、私領持ってる佐賀藩取締役クラスもいっぱいいますしね。なので、実質本藩の懐に入るのは、6万石くらいだったとも言われてるくらいなので。

 まあ、それに江戸時代の早い時期だと、関ヶ原の負い目もあって、幕府からいろんな散財もさせられますしね。初代藩主になる勝茂が、関ヶ原の戦いの際に、後には東軍に付いていた親の直茂からの知らせで寝返ってはいますが、最初は西軍の主力として奮闘してますからね。

 完全に、最初から話が脱線してますが、まあ、とにかく、前回お話ししたように、佐賀藩の懐事情は江戸の初期からすでに自転車操業状態で、借金で借金払いを重ねるようなピンチだったわけです。なので、山本神右衛門重澄さんなんかは必死。この方は、最後には当初「長袴の人」って呼ばれてた「着座」って佐賀藩の平取締役にまで出世しますが、有田に関わった当時は、まあ、藩の部課長クラスで、何とか運上銀が増えるように、最前線で踏んばってたわけです。

 この山本さん。養子に行く前は中野さんですが、この家なんかは、戦国時代の戦闘員気分が抜けなくて脱落していく家が多い中で、うまく戦闘員から役人に脱皮できた家です。それだけ、機転も利くし、胆力もあるし、やっぱこの山本さんがいなかったら、有田の窯業は、今まで続いてなかったかもしれませんね。

 ってことで、本日は頭から尻尾まで全部脱線。(村)

 

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