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有田の陶磁史(404)

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   前回は、1650年代中頃から断行された、内山の窯業の再編の話をしようとしてて、ついついそれを主導した山本神右衛門重澄さんの話になってしまいました。これが、皿屋代官としての、ヤマモトさんの最後の大仕事で、道筋だけ付けて明暦2年(1656)には代官などを引退しちゃったってことでした。

 この内山の窯業の再編ですが、なぜこの地域が海外輸出の拠点として選ばれたかと言えば、そりゃ、効率的量産を図るのに、こんなに都合のいい場所はないからです。

 以前お話ししましたが、内山は寛永14年(1637)の窯場の整理・統合の際に、新たな窯業地域として、山を切り開いて人工的に造られた町です。いわば、磁器生産の工業団地。南北を丘陵に挟まれた東西方向に伸びる谷筋に築かれているため、極めて動線が単純で、知らない人が町なかをウロウロしていると、すぐにバレてしまうような場所です。なので、町の両側に栓をしてしまえば、つまり、番所を構えてしまえば、メチャクチャ管理が容易な場所なわけです。上の口屋番所から下の口屋番所の間だと、2kmくらいしか距離はありませんしね。それなのに、その間にまるで一つの山みたいに、いくつもの山が連綿と連なってるので、大量生産のために一つの塊としてまとめるには好都合なわけです。あっ、何度も触れているのであえて説明はいらないと思いますが、“山”って、自然地形の山のことじゃないですよ。窯場の整理・統合の時にできた、窯業地区の単位のことです。

 なので、内山地区にある山をひとまとめにすれば、海外輸出の拠点として、生産量は軽く確保できるわけです。あとは、いかに生産を効率化できるかってことです。

おさらいみたいになるかと思いますが、内山の再編直前の窯業といえば、ちょうど古九谷様式の技術が有田全体に広がった頃です。とは言え、全部の人たちが古九谷様式の製品を生産していたわけじゃなくて、相変わらず、頑なに初期伊万里様式の製品を作り続けている人とか、こないだまで初期伊万里作ってたんだけど、そろそろ古九谷様式やってみっかってはじめた人など、内山の地域内にいろんなものを生産する人たちが混在していたわけです。

 つーか、窯跡を発掘調査すると、同じ焼成室の床面に、初期伊万里様式の製品と古九谷様式の製品の両方が残っていることがあるので、一つの業者の中でも両方が作られていたみたいですね。そうすると、一つの業者の中での製造工程が複雑になるし、内山全体で見てもメチャクチャいろんな製品が混在していて、しかも、それらがまた技術的に混じったりして、ますますお手上げ状態になってくるわけですよ。生産も煩雑だし、製品も煩雑だし、このままじゃ同じような質のものを、効率的に量産なんてのは不可能って感じ。

 という前提のもとに、内山の窯業の再編ってことになるわけですが、続きは次回ってことで…。(村)

 

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