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文書調査

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今ごろになって周囲の紅葉が見ごろとなっています。ただ、散ってしまった木々もあるので、やっぱりいつもの年と比べると見劣りするのは否めません。

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ところで、先週のことです。東京都公文書館の研究者が明治期の有田に関する資料調査に来館されました。「やっと来ることが出来ました!」と文書資料を前にして、黙々と調査されていました。明治期の延遼館に関する資料が残っているということで来館されたのですが、あの東京都にしても事情は変わらないようで、調査に関しての予算は確保が困難ということでした。私どもも以前、私用で上京の折に、時間を見つけて逗子にお住まいの中島浩氣さん(「肥前陶磁史考」著者)のお孫さんや、川越にお住まいだった大塚為助さん(16軒赤絵屋の子孫で、後に起立工商会社員として渡米)のご子孫をお訪ねし、家族でなければわからないこと、エピソードなどいろんなお話を伺うことが出来ました。思い立ったが百年目!でチャンスはそうそう巡っては来ないので、あの時行っておいてよかったなあと今になってそう思います。

この東京からの文書探訪に関しては先人がいて、かの久米邦武は明治20年(1887)10月2日午前9時に柄崎(現在の武雄市)を出発し、有田を訪れ泉山の深海家に投宿しています。実際に有田での古文書調査は行っていないようですが、後の「星岡史話」には金ケ江三兵衛の墓碑が白川にあったことを書き記していますので、もしかするとこの折に白川に行ったのかもしれません。

この調査は国家の修史事業の材料として各地に残る古文書蒐集のために九州七県の出張を命じられ、その途次、旧知の人々がいる有田への訪問でした。この折、久米さんは「両山対峙し中に谿谷をなし陶工屋を並ふ二千戸に近し、みな工の利を仰ぐ。他の農戸と気習大に異なり、喜んで旅客を待つ」と有田の気質までをも記録しています。さらに、旅館はあるけれど陶家商家に良客があると聞けば敬意を持ってもてなし、これは頗る中国の俗に似ていると。尤も久米さんは有田に知人も多く、皆争って数日は滞在することを願ったと書いています。

翌日、上幸平にあった精磁会社を訪れ、工務局より貸し下された新しい機械の運転を見学し、さらに翌日は香蘭社で深川社長以下町の名士を交えて午餐をとった後、早岐へと出立しています。ちなみに、この折には佐賀鍋島家に於いて多久文書写814通、15冊等を調査しています。これら先人が残してくれた調査の結果は、今日の歴史解明に大きく寄与しています。(尾)

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