年末というのに消費税を8パーセントから10パーセントに上げるゾと、さらに世の中喧しくなってきました。為政者にとっては如何にして税収を上げるかというのは時代が変わっても共通の課題なのでしょう。敢えて搾り取るとはいいませんが、庶民からしたらその税収はどう使うのだと思っていたかもしれませんがどうでしょうか。
この有田皿山の発展もある意味、佐賀藩としての税収を上げる取り組みが功を奏したという一面があるのではと思います。磁器焼成成功後まもなくの寛永14年(1637)に朝鮮から渡来した陶工とその関係者以外の日本人826人を追放していますが、これは山林保護のためでした。しかし、一旦追放したものの、それでは運上銀(税金)が減少し、藩の財政に響くというので一部の日本人陶工を陶業に復帰させ、税の増収を図っています。
元治元年(1864)の年号が入った「釜焼名代札」
名代札そのものには運上銀は課せられずに細工札や絵書札に丁銀七分が課税されていた。
そのころ、大坂の商人塩屋惣五郎の手代・塩屋与一左衛門とえぐや次郎左衛門という二人の商人が有田磁器を買い付けに伊万里にやってきました。有田大木宿に在勤していた山本神右衛門はこれを聞き付け、早速、伊万里の商人東島徳左衛門に大坂の商人と売買の交渉をさせ3人で山請けするという契約を結びました。その結果、それまでは年に銀2貫100目だったものを銀20貫目ずつ上納させることに成功しました。ナントそれまでの約10倍です。しかし、事はそう上手く運ばず、大坂商人は大損して大坂へ逃げ帰ったといいます。
その後、どのような協議がなされたかは不明ですが、皿山からは1年に銀35貫目ずつを3ヵ年の山請けになりました。ただ、佐賀藩は運上銀の増加はいいとしてもまた山が切り荒されるのではとの懸念があり、再度、陶工追放の案が出され、この案の取りやめをお願いするためには1年に銀35貫目の上に増額してお詫びをするほかに手立てはないと間にたった石井兵庫は皿山の窯焼きたちに提案しました。しかし、窯焼きたちは「今でさえも過重な負担なのにこれ以上は無理だ、そのために追放されるのも止むを得ない」と交渉は決裂。
神右衛門は陶工を追放すれば朝鮮から来た陶工たちの生活も考えねばならないし、さらには皿山からあがる運上銀がなくなれば藩の財政は一層苦しくなると考えました。そのとき、神右衛門は思い切った計画を考え出したのです。
続きは次回へ。 (尾)H27.12.22