前回は神右衛門が思い切った計画を考え出したところで終りましたが、その続きです。
神右衛門は運上銀を一ヵ年に銀68貫990匁とする計画案を作成し、皿山中の者を一箇所に集めてこれを読み聞かせ、この案を受け入れるように説得したとあります。この当時の窯焼きの数は155戸と思われますが、その半数の75人は条件付(もし倒産するものが出た場合はその分の運上銀は切り捨てる)で受諾しましたが、残り75人はこのような過重な運上銀の負担に堪えられないので寛永14年(1637)にあった追放も止むを得ないとして拒絶しています。
銀35貫目でさえ困難だというのに、言いも言ったりですが、佐賀藩としても皿山から陶工を追放すれば彼等が他領へ出ていくことを認めざるを得なくなり、製陶技法を守るどころか運上銀という税収も減少するという苦しい立場でもありました。
結局、国許では決着がつかないということで、江戸の藩邸で藩主の採決を仰ぐことになり、正保4年(1647)12月、山本神右衛門を皿山代官に任命して上記の計画を実行するよう決定がなされました。翌慶安元年(1648)正月8日、神右衛門は有田の代官所に赴任し、その1年間に銀77貫688匁の運上銀を取り立て、藩へ上納することに成功しています。「佐賀藩の総合研究」によれば、寛永4年(1627)当時の佐賀藩の借銀が2300貫あったといわれていますが、これを契機に佐賀藩は有田の陶業を藩の産業として取り上げ、本格的な経営に乗り出したといわれます。当初の計画よりも約10貫目も多く税収を上げた神右衛門の手腕、実際にどのような形で生産増を図り、販売していったのか気になるところではあります。以前、この折の増税、増産の方法について大先輩に聞いたことがありますが、恐らく、このころの窯跡から出土する陶片の中に、高台の部分を無釉にしているものがあることから、その辺りで手抜き?をし、増産に取り組んだのではないかとのお返事でした。まあ、皿山の人々もどこかでこういうことをしなければ藩の御無体な申し出に応じることは出来なかったでしょう。
これら運上銀の納め方ですが、江戸期の当初からそうだったかはよくわかりませんが、文化年間の資料が残っていて、毎月か数か月か、この辺は不明ながら8日に酒請運上と合わせて皿山で集めた運上銀・銀3貫から4貫余を本藩の小物成所という役所に納めるため、泉山の土場(磁石場)番人が有田皿山から現在の佐賀市まで運んでいたことを記した資料が残っています。
ちなみに、この山本神右衛門の子が「葉隠」の口述筆記をさせた山本常朝ですが、彼は神右衛門70歳の時の子どもでした。母は伊万里郷の前田氏といわれています。
さて、これから国の消費税増税がどのような形で使われていくのか、平成の民はしっかりと検証していくことが求められていると思います。 (尾)H28.1.19