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有田焼を担った道・上手路を歩く会開催!

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3月13日(日曜日)に塚崎・唐津往還を歩く会と共催で、有田焼を担った道・上手路を歩く会を開催し、れきみん応援団の皆様と共に(尾)も老体に鞭打って参加しました。歩いたのは有田から伊万里津までの行程約17km。参加された方々は当館のHPを見て遠く神奈川県から参加したいと申し込まれた女性をはじめ、県内外から総勢44人でした。まず、有田駅に集合し、軽くストレッチを行い、200年前に伊能忠敬測量隊も歩いた内山地区を進みました。有田町内の各所では応援団の皆様が説明していただき大活躍でした。でも、有田皿山を抜けるまでに約2時間かかってしまい、山内町宮野の黒髪神社で昼食後は、佐敷峠、筒江窯跡などを見学し、途中雨が降り出したものの昔の道が残っている場所を中心にひたすら伊万里津を目指しました。

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明治20年に著された『制度考』という資料があります。残念なことに著者名は記されていませんが、『有田町史 商業編I』や『伊万里市史 陶磁器編 古伊万里』などを執筆された前山博先生は、この著者は恐らく横尾謙さんだろうと推測されています。横尾謙さんは有田の酒造家川原善之助さんの次男で、明治32年に有田町長に就任し、改正皿山風土記や日本陶器史などを編さんしましたが、特に有田の旧制度に精通していたと『肥前陶磁史考』にあります。

その『制度考』は3編に分かれていて、その第1編の口屋番所の項目の中で、「磁器を伊萬里港に運搬する担夫(荷担ひと云う)毎日五、六十人に下らず」とあります。これは「荷担さん・ににゃあさん」という、今で言う運送業者が日に5~60人いて、有田皿山と伊万里津を行き来してことを記しています。また前述の『肥前陶磁史』にも、「陶磁器を有田より伊萬里へ運ぶには、皆荷担ひの肩であった」と記し、上手路の荷にゃあさんは宮野(現在の武雄市山内町)の佐敷峠の茶屋で、下手路は有田町の唐船の茶屋で休憩して有田焼を運んだとあります。ちなみに、伊万里津の問屋まで運んでそこで荷籠の目方(重さ)を計り、その量で賃銭が支払われたそうですが、その相場は100斤(約60キログラム)30銭くらいだったとか。この賃金が約17kmの道のりを天秤棒で担いでいく労働に見合った金額だったかどうかは、今現在の感覚では理解し難いところではあります。

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「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」(有田陶磁美術館蔵)

当日は生憎の天候ながら、全員で無事伊万里津までたどり着き、その後は有田町までMRの電車であっという間に戻ってきました。有田陶磁美術館の「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」に、履物は草鞋に脚絆姿で焼物を運んでいる「荷にゃあさん」の姿がありますが、改めて先人たちの苦労に思いを馳せたところです。
(尾)H28.3.15

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