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川崎千虎

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先週、佐賀大学美術館より明治期の日本画家・川崎千虎が描いた当館所蔵「祈之図人物画・彩色人物画」(写真)の借用に来館されました。これは5月20日から開催される企画展「佐賀の美術教師たち」に展示される予定です。この絵画には「佐賀縣西松浦郡有田徒弟学校長 川崎千虎」の署名があります。川崎校長は明治28年10月の開校時に有田へ赴任し、同30年3月に辞任していますから、その間に描いたものと思われます。館報No,43でも紹介していますが、川崎千虎は東京美術学校(現在の東京藝術大学)の教授をつとめていました。他の教師陣では安藤時蔵が東京美術学校卒業、梅田音五郎は東京工業学校卒業という、明治の頃の地方の学校、しかも尋常小学校を卒業した生徒を相手の教授陣としては突出したものであったと思われます。

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当初、有田町・有田村・曲川村・大山村・大川内村の1町4か村で学校組合を作り、組合立の「有田工業補習学校」の構想で出発し、明治28年10月1日、有田徒弟学校として白川にあった勉脩学舎跡を利用し開校しました。当館所蔵の有田徒弟学校に関する資料の中に学校日誌の断片と思われる文書があり、恐らく明治29年5月7日(木曜日)と思われる日付で大隈重信が徒弟学校を訪れた様子が記されています。ただ、このことに関して『肥前陶磁考』には同年3月24日に大隈が来たとあります。日付が異なるものの日誌のほうには、「大隈伯歓迎の為、両科生徒職員引率し岩崎迄出迎え、午後3時頃旅館深川方へ到着さる」とあります。

また、このほか、前年10月31日には文部参事小山健三氏巡視、同年12月には帝国博物館(現在の東京国立博物館)備付狩野元信他6点の粉本を参考のため100日間の拝借という記事もあります。いずれにしても川崎校長を介して実現したものではないかと思われます。ちなみに「有田町史 政治社会編II」によれば明治29年の生徒数は、本科生35人とあります。徒弟学校の維持費は石場の収入から支出され他に県費や国庫の補助を受けていましたが、年々経費が膨張するに従い、維持が困難となって同33年に徒弟学校の趣旨を引き継いだ佐賀県工業学校有田分校が設立され、同36年、佐賀県立有田工業学校が創立されました。

いずれにしても、有田焼の技術を次の世代に引き継ぐために先人たちがその時代、時代にあった方策を懸命にたてていったことが実業教育の歴史からも窺えます。(尾)H28.5.17

 

※「佐賀の美術教師たち」展覧会

・期間    平成28年5月20日(金曜日)~7月10日(日曜日)

・開館時間  10時00分~17時00分

・休館日   月曜日

・入館料   無料

・場所    佐賀大学美術館
                     佐賀市本庄町本庄1番地

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