皆様ご存知のことだと思いますが、有田焼350年を記念して、50年前の先人たちはその当時、日本を代表する超一流の作曲家・作詞家・歌手の皆様に依頼して「有田チロリン節」を作りました。
作曲家は古賀政男さん、作詞は西沢爽さん。そして国民的歌手であった美空ひばりさんが歌うという、なんとも豪華なトリオでした。
この歌が出来る過程については「おんなの 有田さんぽ史」にも詳しく掲載していますが、当時の有田商工会議所会頭であった岩尾新一さんらのご努力によって形となりました。そのころ、岩尾会頭の身近にいてその時の様子をリアルタイムでご覧になっていた横浜市在住の岩永さん(深川六助さんの令孫)からご教示いただいたのですが、西沢さんは岩尾さんとも親しく藍田荘に宿泊して構想を練り、古賀邸の訪問は今泉清さん(13代今泉今右衛門さんの叔父)の紹介で青木町長、岩尾会頭と今泉さんの3人。すぐに快諾を得たとのことでした。
その後、古賀・西沢両氏の尽力で、このような一地方の民謡のような歌を歌うことがなかった美空ひばりさんに依頼し、有田焼創業350年祭の取り組みの一つとして昭和42年に完成しました。猿若清万さんの振り付けになる踊りも出来上がり、有田工業高校の校庭で盛大に発表会がひらかれたのが同年10月17日の夜だったそうです。
(岩尾対山窯提供)
「右より岩尾煕さん、西沢爽さん、古賀政男さん、岩尾新一さん」
もう1曲の「有田皿山節」も昭和9年12月に有田を訪れた野口雨情によって作詞され、同31年佐世保市の音楽家・土井末義さんが曲をつけたものです。
いずれも有田では皿を持って踊りますが、よくいつ頃から皿踊りが始まったのかという質問を受けます。中々これといった資料はないのですが、昭和29年4月3日付けの佐賀新聞の記事では陶器市の宣伝として皿踊りを披露したとあります。ただ、この頃はまだチロリン節は世に出ておらず、また皿山節にも曲は付いていない時でしたから、何の曲で踊ったかはよくわかりません。
その後、同32年4月19日付けの有田広報には鹿島市で行われていた佐賀博で、泉山銀杏会のお婆さんたち10名余が4月10日午前10時、第二野外演芸場で「舞台バックに有田陶器市の宣伝ポスターを巧みに取りつけて、前後数回にわたり踊りまくり、満場カツサイの風をうけた」とあります。
ちなみに今でも踊りの女性たちなどが身につけるチロリン浴衣のデザインは、有田の生き字引と言われた池忠さんこと池田忠一さんの長男で香蘭社のデザイナーでもあった池田淳之助さんでした。(尾)H28.6.21