文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

災害

最終更新日:

先週の木曜日はもの凄い雨と雷が続き防災メールもひっきりなしに入ってきました。その後も雨は続いていますが、気象予報が発達した近年に於いても、熊本地震のように、それがもたらす災害は予想もつかないというのが現状ではないでしょうか。

この有田の400年で最大の危機となった災害は文政11年(1828)の台風がもたらしたものでした。戊子(つちのえね)の年だったので「子年の大風」とも言われるこの台風は、西日本一帯を襲ったもので、旧暦の8月9日、新暦でいうと9月18日の夜10時ごろ、南東の方から大風が吹き出し、岩谷川内で出火した炎は、またたく間に谷筋をかけのぼり、白川と泉山の一部を残してほぼ焼失し、死者も40~50人ほどであったと言われています(館報No.94を参照ください)。

翌日、風雨が収まり、前夜命からがら近辺に逃げ去っていた人々が戻って来たときには、皿山一帯は荒涼とした焼け野が原になっていたといわれ、その心情や、察するに余りあります。

佐賀藩も領内全体が大変な被害を蒙ったのですが、有田皿山に対しては御売米を届けたり、あるいは御国産第一の皿山を復興させるため、伊万里津の商人を通して紀州・筑前の陶器商人たちへ5000両の入銀(手付金)を頼んでいます。もちろん、藩からだけではなく、親類や知り合いの人々も食糧や衣類などを牛馬にのせ駆け付けたとあり、あらゆる方面から救いの手が差し伸べられたと記録にあります。

また、『皿山代官旧記覚書』には「一山焼失に及び、釜焼細工人に至るまで釜住居等」とあり、住居を失った人々は登り窯を仮住まいとして生活していたことが記されています。今で言うところの仮設住宅というところでしょうか。

sankuan
三空庵の大地蔵
大火の折、信者の徳三郎が駆けつけ、背負って逃げた大地蔵さん

実は焼失前の様子をあの伊能忠敬測量隊が記録しています。文化10年(1813)ですから、大火の15年前になります。同年9月22日、前夜は岩谷川内の焼物屋八十右衛門宅に止宿していますが、「此家は大家にて家作よし」とあって、大きな家であったことが伺えるのですが、どの場所かは特定ができていません。その後、測量隊は中の原、稗古場、赤絵町と進み、十六善神、法元寺、桂雲寺、本幸平、白川、八幡宮(現在の陶山神社)、大樽、上幸平、西光寺などを記録しながら笹屋政五郎宅で小休止しています。西の方から泉山、弁天社辺りまで町並み人家が続いていること、その長さは22町(約2,4キロメートル)、家683軒とあります。勿論、石場も記録していますが、「此所陶器製、即有田焼なり」という町並みは文政11年にはほとんどが焼失してしまいました。

しかしながら、佐賀県立図書館所蔵の「安政6年 松浦郡有田郷図」には、大火後、30年を経て見事に再興した有田皿山が描かれていて、改めて有田の人々の底力を見る思いがします。(尾)H28.6.28

このページに関する
お問い合わせは
(ID:597)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.