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有田の陶磁史(212)

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   前回は、正保4年(1647)の山本神右衛門さんの、運上銀倍増計画案の内容について考えてみました。結論としては、利ざやの稼げる最新様式の普及と海外輸出がその内容だったように思います。まあ、江戸の需要層の新規開拓も大きかったかもしれませんが。

 その話題になる前には、正保4年(1647)12月26日に江戸藩邸よりもたらされた決定により、ついに山本神右衛門重澄を初代皿屋代官に任じて、山本案の計画実行の責任を負わせるってことになっていました。案の交渉をはじめた時には、半分の窯焼きしか賛同を得られませんでしたが、結局、どうなったかはどこにも記されてません。でも、陶工を追放したなんて記録もありませんので、結局、全員説き伏せたんでしょうね。窯業専任の代官のいうことですし、藩そのものも窯業の産業化を決断したわけですから、そりゃなかなか逆らえないでしょうね。

 かくして、皿屋代官となった山本さんはさっそく26日の晩に、佐賀から夜通し歩いて有田に赴いたそうです。やること早いですね。ちなみに、たとえば佐賀城のあった佐賀県庁から有田まではだいたい50kmほどありますので、自動車だと1時間半もあれば移動できますが、当時は徒歩ですから最低でも10時間くらいはかかったでしょうね。夜8時くらいに出て、朝の6時か7時くらいに有田到着って感じでしょうか。もし山本さんが一流のマラソン選手なみの健脚で、走って有田に行けば3時間くらいでしょうけど、夜通し歩いたことになってますし、逆に山本さんは例の島原の乱で負傷して、片足失っていたという話もありますし。まあ、有田ではとりあえず大晦日までの間に一通り手はずを指示しておいて一旦佐賀に帰り、翌正保5年(慶安元年)(1648)の1月8日にはさっそく有田の代官所に着任しています。

この時赴任した代官所の場所は不明ですが、いつの頃からか、内山の白川地区、あの天狗谷窯跡の近くですが、そこに移設されています。移転時期については、文献史料では寛保3年(1743)以前ということまでしか分かりません。まあ、可能性の高い時期は示せますが、それはここでは直接関係ありませんので、また後日お話しします。でも、12月26日に皿屋代官に任命されて、翌年1月8日には着任してるんですから、さすがにその間に新しい代官所を造るのは不可能です。なので、最初はもともとの大木にあった代官所をそのまま使ったんでしょうね。でも、ちょっと窯業の中心地からは離れているので不便そうではありますが…。

 で、運上銀はどうなったと思いますか?だんだんというか、それまででもあまりに急拡大するから、知りたくなるでしょ。とりあえず、前年発表した運上銀倍増計画案では、68貫990匁、現在の価値で1億3,798万円でした。その前が35貫目で7,000万円、その前が20貫目で4,000万円、さらにその前は銀2貫100目で420万円だったわけですから、しかもこの間わずか10年です。

 さてと…、それでは答えですが、この年の運上銀は、何と77貫688匁です。1億5,537万6,000円ってことですから、計画よりもずっと多く取り立てたわけです。10年で420万円が1億5,537万6,000円に化けたんですから、そりゃ藩も笑いが止まらないでしょうね。

 そして、この徴税後に次のように語ったと言われます。

 

「皿山の儀は、なされようさえ能く御座候はば、以後まで御運上召し上げられるべく候。神右衛門が一存にて毎年過分の御所務(税収)なされ、向後御為に罷り成り、云々」

 

 何だか、徳川吉宗時代の勘定奉行も務めた神尾春央が語ったとされる、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」を連想してしまいますね。まあ、それほどヒドくはありませんが、まだまだ窯業は、工夫さえすれば、もっと運上銀を増やすことができるって考えたんでしょうね。以後、実際そのとおり安定した税収になるのですが、さすが山本さんの先見の明は大したもんです。

 ということで、次回からは、この山本さんの改革にも重要な位置付けを占めたと思われる、新開発の製品のスタイルである古九谷様式について少し(?)お話ししてみたいと思います。(村)

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