これまで山辺田遺跡で出土した色絵磁器の中でも青手に分類されている陶片をいくつか紹介してきました。ただ、山辺田遺跡で色絵磁器が出土することにどんな意味があるのか、疑問を持たれる方も多いかもしれません。そこで、今回はちょっと回り道をして、いわゆる「古九谷」と称される最初期の色絵磁器について、その名称の由来や生産地の問題について、簡単にまとめておきたいと思います。
有田を中心とする肥前磁器については、一般的に、「初期伊万里」、「古九谷」、「柿右衛門」、「古伊万里」、「鍋島」などに分類されることは、よく知られています。この名称は大正時代から昭和初期にかけて普及したもので、当時は、製品にスタイル差が生じる要因は、製品の生産場所差によるものと考えられていました。そのため、石川県の九谷産と推測されるものを「古九谷」、酒井田柿右衛門家製を「柿右衛門」、有田の民窯製品を「古伊万里」、鍋島藩窯製品を「鍋島」としたのです。また、「初期伊万里」については、後に「古伊万里」の中から、相対的に古そうな一群を抽出して独自の区分としたものです。
ところが、昭和30年代頃になると、研究の進展によって、製品のスタイル差を生じる要因は生産場所差ではなく、生産時期差ではないかと考えられるようになりました。そのため、従来の名称は特に意味を持たなくなったのですが、すでに名称が広く普及していたため、変えることができなかったのです。
そこで、生産場所を表す名称としてではなく、類似した製品をグループ化したもの、つまり、単純に製品のスタイルを表す名称として使用することとし、生産地分類とは区別するため、各名称の後ろに「様式」という語を加えることになりました。たとえば、「古九谷様式」とか「柿右衛門様式」などです。つまり、この様式分類では、「古九谷」や「柿右衛門」の名称の部分に、石川県の九谷や酒井田柿右衛門家の作という意味合いはまったく含まれていないということです。ちなみに、今日でも様式の語を省略した表記も珍しくありませんが、あくまでも製品のスタイル名のことで、あえて断りのない限り、生産場所とは無縁です。
ただ、現実的には「柿右衛門様式」は酒井田柿右衛門家の位置する南川原山で開発されたものなので、その中に酒井田家の製品も含まれていることは間違いありません。ところが、「古九谷様式」の場合は、産地自体が九谷から有田に変わってしまいますので、少し事情が複雑です。
実は、昭和10年代には、すでに「古九谷」の伝世品の中に有田の製品が混じっているのではという意見もあったのですが、ほぼ抹殺された状態でした。ところが、昭和30年代中頃に山辺田窯跡の採集品などで、「古九谷」は有田産ではという意見が唱えられはじめられたのです。また、昭和40年頃には、ヨーロッパに生産規模の小さいはずの「古九谷」が多く残るのはおかしいのではという説が出されるなど、九谷生産説が揺らぎはじめたのです。これは、当時の「古九谷」の範囲が、当初より拡大の一途をたどっており、「有田は職人の絵だが、古九谷は絵師の絵」など「?」な理由で、色絵磁器に限らず良質なものの多くは「古伊万里」ではなく「古九谷」とされたため、1659年以降にヨーロッパに大量に輸出された有田の製品まで含んでいたことによります。ただし、現在では、この「古九谷」とされた多くのものが再び有田産に戻ったため、「古九谷様式」という括りでは、ずいぶん対象とする範囲が狭くなっています。
そして、昭和40年代以降、徐々に窯跡の発掘調査が行われるようになりましたが、特に山辺田窯跡で伝世品として残る「古九谷」大皿と同様な色絵素地が多量に出土したことから、一気に古九谷有田説が有力視されるようになったのです。ただし、わずかに色絵磁器片も出土していますが、当然のことながら、登り窯跡で出土するのは、上絵を施す前の色絵素地がほとんどです。そのため、素地は有田で生産して、それを九谷に運んで上絵付けしたという「素地移入説」も飛び出すなど、すんなりと九谷から有田への産地変えが進んだわけではありませんでした。
昭和60年代以降になると、有田で発掘調査が急速に進み、窯跡のほか、17世紀後半以降の赤絵屋の工房跡なども発見されました。これにより、長くなるので今日は触れませんが、「古九谷様式」の製品の有田における生産状況や、「古九谷様式」の技術の有田の窯業における意義や役割などもかなり明確になってきたのです。
ただ、それでも、有田では色絵磁器片の出土が少ないことや、実際に上絵付けを行った赤絵窯跡が発見されていないことが、有田説を拒む残された根拠とされたのです。そこで発見されたのが、山辺田窯跡の工房跡である、山辺田遺跡なのです。ここは上絵付けも行った工房跡であるため、色絵磁器もこれまで800点くらいも出土していますし、すでに壊滅状態には近かったものの赤絵窯跡も発見されました。つまり、とりあえず、有田説に必要とされそうな要件は、これでほぼすべて揃ったことになるのです。
もちろん、九谷にも規模は小さいとはいえ同じ頃に登り窯も築かれていますし、赤絵窯跡も発見され、色絵磁器も出土しているので焼成されていたことは間違いありません。ただ、有田では「古九谷様式」の伝世品に類似する陶片も多いのですが、これまでのところ九谷では伝世品に類似したものが見られません。実は、この九谷製品に類似したスタイルの製品も山辺田遺跡では出土しているのですが、これについてはまた別の機会に取り上げたいと思います。(村)H28.8.1
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発見された赤絵窯跡 | 赤絵窯跡付近の青手磁器出土状況 |